道端の小石のように

考える日々。

現象の謎って?

哲学において、存在の謎というものは重要な問題の一つに数えられる。近代以降であれば、ハイデガーの探求は存在の謎に関してもっとも顕著な例だと言える。つまり、存在論への志向となる。その一方で、フッサールの場合には、存在の謎というものは謎と言われるほど切羽詰った課題ではなかったと思う。おそらく、フッサールにとっては存在の謎よりも現象の謎になる。つまり、どのようにして現象的な世界が成り立っているのかの問いであって、これはデカルト、カント以来の哲学の典型的な態度だったように思われる。

 

ここで、二つの謎としての、存在の謎、現象の謎という区別をしてみると、自分は素直に、どちらも十分に価値のある対象であると感じる。そして、この二つの問いを見比べてみると、少なくとも存在の謎はたぶんにアプリオリな領域であり、現象の謎はどちらかというと経験科学と相容れないものというわけではない。むしろ、現象的な世界を捉えるためには経験科学の助けが必要になるに違いない。そうしてみると、現象の謎を考えるということは、科学から断絶するどころかおそらくは相互補完的に成り立つ関係なのであり、存在の謎よりもいっそう親しみやすいものになるだろう。例えば、自分たちは自らの主観的体験を報告したり、記述できたりして、そうやって(自己という表象を含む)現象的世界を観察したり理解したりすることを進化の結果であるとか、あるいは幻覚や夢体験といった生理的現象などを用いて理解しようとすることができるからだ。その意味では、現象の謎というものは哲学というよりも、実際には経験科学に近いところがあるのではないかと思う。

 

フッサールにおいては、生活世界概念というものがあり、これは存在論として十分に展開できるものだった。それによると、生活世界というものは、共同主観が成立する以前の普遍的(かつ不変的)な構造であり、そこからこの世界が形成されるということになる。これは端的に言って存在論ではあるが、存在の謎ということにはならないと自分は思う。同様に、カントの物自体も存在の謎ではない。なぜなら、どちらも自然な帰結にほかならないからだ。しかし、フッサールの生活世界とカントの物自体の両方は異なる問題提起によって得られる帰結であり、生活世界は自然的態度の形成や間主観性の問題から、物自体は一次性質・二次性質といった認識論の問題から成り立っている。カントのほうは完全に形而上学ではあるが、フッサールのほうはかなり自然な考え方であると言えるはずだ。

 

フッサールの自然科学や数学に対する態度は、確かに不当な評価であったかもしれない。ただし、フッサールは科学や数学そのものを無価値であると批判したり攻撃したわけではない、と言っておきたい。フッサールによると、ガリレオ以来の自然科学が、何らかの基準(それは数値的・計量的な基準のことで、現象が中立的に記述され、高い精度で的中されることで“正しさ”を保証するような基準のこと)を設けることで世界を正確に理解しようとし、それによって真理に到達できるという科学者の慢心的な態度を批判した(……いや、叱咤したと言えるかもしれない)。実際のところフッサールがどれほど従来の方法を批判しようとしたのかを自分はあまり知らないが、これが行き過ぎるとプラグマティズムの否定にも繋がってしまうかもしれない。しかし、ここには論点のズレがあるのではないかと思う。フッサールは生活世界概念を作ることで、それこそが真理と呼べるものへの確かな手段だと考えたのだ(と自分は思う)。言ってみればこれは、自分たちが確かに何らかの共有された空間に生きており、そこに存在し、そしてまたそこから人間の世界や自然科学の世界が成り立つのだという、穏当な存在論の提案だ。それは直観的に理解できるものである。ウィトゲンシュタイン言語ゲームに通ずるものでもあるだろう。よって、生活世界そのものは科学の対象になることはない。なぜなら、生活世界があってこそ自然科学の営みや人間の活動が成り立つのであり、現象的な世界を計量的に理解しようとする態度もまた、すでに“基準”を用いた相対的な方法でしかないことになる。だが、生活世界そのものというものは、確かに自分たちがそこから成り立っていながらも、客観的な(相互主観的な)方法によっては判明することのない対象となるはずだ。

 

同時代のエルンスト・マッハ(彼はフッサールと交流もあった)は明確に道具主義の立場をとっている。同時に、当時の生物学の知見も自身の思想に取り入れていたようだ。考えてみれば、当時の哲学においては生物学、つまりダーウィンの進化論に裏打ちされた考え方が浸透したようだし、フロイトの存在もあった。この両人に強い影響を受けていたのがニーチェであり、さらにフッサールの時代にはアインシュタインも生きていた。自分としては、フッサールは科学や数学を頭から否定したわけではないと思っている。しかし、フッサールは自身が数学に嗜んでいながらも、数学がかつてなく充実し、生き生きとしたものとなるのを予想しなかったのではないかと思う。もしもフッサールが現代の数学を知ったならば、自分の態度を反省したのではないか……たとえば、四半世紀前の哲学者が人工知能研究を甘く見ていたように。だが、フッサールの領分は超越論哲学であるのだし、自分が思うに、当時の唯物論的な科学者たちが安易に「真理」といった目標を掲げたことに我慢ならなかったのだと思う。結局は、アプリオリな領域をどう解決するかが哲学の課題の一つとなる。何を以て真理に到達すると証明できるのか、もしかするとこれは擬似問題でしかないのではないか、生真面目な哲学者ならきっとそう言うのだろう。