道端の小石のように

考える日々。

6月の近況

今年の半分が終わってしまった、といっても、そのことに大きな意味はない。人生の残り時間を考えることに意味がないように。

 

色々と書きたいこともあるので、適当につらつら書いていく。

 

去年くらいから現象学をしっかりやりたい気持ちになったので、ひたすら勉強してきた。その成果がだんだんと表れてきた実感がある。もとより現象学フッサールだけが自分の探求のモチベーションではないし、批判哲学もとい超越論的哲学のさらなる発展や乗り越え、できればそれが存在論の定式化につなげられればいいなと思っている。

あらゆる哲学の試みは、私なる自己意識から出発していると信じている。すべてはその発展形や分節化にすぎない。ただ、それは哲学のあまりにも自明な姿勢であるために誰もが常日頃から意識していない。それが自然科学や数学であっても、それらの営みはわれわれが共通に持っている認識から成り立つもので、フッサールのような哲学者はそれらを成り立たせる枠組みのようなものを探求したことは事実であるだろう。但し、それがあらゆる認識的活動の基本原理となることで客観科学の基礎づけや分析哲学の主要な議論に関連したり貢献したりしなかったりに関わらず、そういったことは目下、自分の唯一の目標とするものではないし、自分がやりたいことは最初から自己意識の完全な理解と世界との関係、しいては形而上学存在論に関わるものと決まっている。カント哲学におけるカテゴリーや先験的統覚といったものの表明や、ニーチェ力への意志ハイデガーの道具的存在といった現象的世界としての自己意識の現れの何らかの規定を行うものとしての探求に自分は関心があり、ほとんどそれだけのために哲学のテクストに関心を持っている。

個人的には、哲学史というものにはあまり興味が湧かない。ただ、哲学史を知っておくと彼らの主張がどういうものであったのか、その歴史的経緯がわかったりするし、不要な誤解をすることもなくなる。なにより、もはや形骸化しきっている心身問題や第一性質と第二性質といった議論の本来の論点など、それが実際に人間の理性や世界の真の姿というものを正当化できるか否かという実益的な狙いもあったはずであり、その意味では、自分はどちらかというと実益的な諸問題を、はっきり言うと実存的な諸問題を、ある程度まで解決できればいいと望んでいる。そのとき、自己意識というものは解決されなければならないアポリアとして浮かび上がる。

何が知れるか、何に触れられるか、何を疑いようのないものとして受け入れられるか、それが実存としての自己意識と深いかかわりを持っていることは明らかなことだ。もっと言うと、世界の「意味」とか「理由」とか「目的」など多岐にわたるもので、自己意識が成り立つということは、哲学の主要な論争で語られている以上に様々な考え方や捉え方が可能であるように思う。カテゴリー、信念、知識、言語、あるいは相互主観性や独我論という伝統的な種類の議論から、欲求、感情、記憶、知覚、空間といったあまり重要視されない“下位”なクラス、言うなれば物質的、生物学的なもの、こういったものが自己意識の成立として欠かせないどころか、この世界の存在と生成にまつわる原則を間接的に表しているのではないか、すなわちそれが人間という存在者と世界(あらゆる存在者の集合としての)の近さを示すというよりかは、私という自己意識はいったいどのような条件下で“成り立たなければならない”のか、ということ、またその条件を一般化したり普遍的なものとして理解することによって自己意識の確たる存在の根拠を、また自己意識を生み出すであろう世界の存在とそこに住まうすべての存在者を性格づける根源的な原理原則を公のものとすることができるのではないか。それによって自己意識というのは、単なる偶然の産物ではなく、それが成り立つような世界で生じる必然的な現象として理解され、それがまた世界をも同時に規定するといった対応関係を示したりするものかもしれない(そして、その結果として論理や因果や無や無限といったものまでもが何らかの必然として明文化される)。これがありふれた哲学の話題の一つであるからこそ、そこには容易に見過ごされがちな、自己意識というものをそれまでの哲学の伝統によって権威づけたり覆い隠したり盲目的に理解しようとする不誠実な態度が潜んでいる。つまり、これからは、まったく新しい自己意識の哲学や格律が求められるのではないかと自分は思っている。それは、カントが彼の生きる時代の哲学の殻を打ち破ったように、自己意識はまったく新しい哲学的試みの中心として再考されなければならない。そんな日がいつか訪れるのかもしれない。自己意識はそれくらい探求の幅の広いものであり、きわめて些細な事実がこの世に存在するとしても、それは一つの中心につながっているものかもしれない。それを見極められないと、哲学は、形而上学は、なんとも粗末で荒唐無稽な独断論と化してしまうように思う。

 

数学の進捗・・・微分幾何と表現論の勉強を始めました。手当たり次第に入門向けの本を読んで時間を潰している。来月からはスキーム論についても学んでいこうと思っている。トポロジーが色々と楽しい。早いところ一般相対性理論を理解したい気持ちもあるけれど、とにかく数学というのは論理なのだとつくづく感じる。論理というものが自分たちの頭のなかにどのように生じることについても今後は考えていきたいけれども、なにより数学というものは思考の導き手となり、世界に関する様々なモデルを示唆してくれるように思う。