道端の小石のように

考える日々。

0922

夏も終わりに差し掛かってようやく涼しくなってきた。今年の暑さはやけに辛い感じがした。これから徐々に調子を取り戻してガッツリと本を読み進めていきたい。

 

今年はあまり哲学の勉強をやれなかったことが少々残念な気もする。けれども数学や物理に関する理解が多少なりとも深められたのでひとまず良しとしたい(これでカッシーラー相対性理論やボーム解釈なんかにも攻め入ることができるわけだ)。手を出したい分野は色々あるけども、あまりに欲張りになりすぎると中途半端に終わってしまうので慎重にならないといけない。

 

自分は哲学の議論や知識というのも探求のための一つのツールであると思っている。探求というものに関してゴール地点があるとするなら、それはより善い生き方や存在ができるようになることではないかと自分は考えている。これは実存主義的ないし人生論めいた言い分に聞こえるかもしれないが、そういう意味ではなく、知識(知)を求めることに意義があるとするならば、究極的には、この世界を以前よりも豊かなものとして享受するということを意味してしまうと思うわけだ。

 

もちろん単純に、目の前に未解決の問題があり、それを解き明かすということが生きることの意義に直結するわけではないし、そのために問題と向き合うわけではないにしても、それら全部をやや強引にひっくるめて、それすらも自分たちの存在の有り様として考えるしかないんじゃないかと。自分たちはそうやって愚直にも世界を解き明かしていくほかないのだと。それは自分たちが意識や本能を持った一個の生物にほかならないことの証左ではないか。

 

善い生き方といっても、それは物質的に(または精神的に)豊かであるとか快楽的というわけでもなく、生きることにつきものの不安や疑問や障害を取り除くことにすぎない。結果として、自分たちが何かをやっていくうえで問題が生じ、それらを一つ一つ片付けているだけかもしれない。何も知らない状態では不可解で神秘的に思うものであっても、正しい知識を身に付けていればそう思うことはなくなる。そういう意味で、探求のゴール地点というものは、世界に関する正しい理解といったものになるのではないかと思う。

 

個人的にそのような思いを抱きがちなのは、自己意識に関する世間一般のイメージだ。自己意識や理性といったものにまつわる先入観や誤解というものは、やはり哲学の教養の低い人々に多いと思われる。私見だが、そういった人々は理系の人間にも多いと感じる。最近だと人工知能の進展もあってか意識というものがより計算論的に理解されることが多くなっている気もするし、そこでは意識というものは単なる進化の産物として片付けられるか、ありもしない幻想であるかのように語られる。そのような見解が真実であるとは自分はまったく思わないし、最初から結論ありきな部分も見られる。

 

結果として、複数の分野を渡り歩かないと簡単に犯してしまう初歩的な失敗があるのは事実だろうし、それが些細なものであるか、深刻な手違いになるかはその問い次第であると思う。数学的な対象の実在を説く人もいれば、自己意識は幻想であると主張する人もいる。それが正しいか間違いか、しっかりと判定する必要がある。間違いのままで良かったことなど、これまでに一つも存在しなかったと信じたい(そして間違いというものは必ず解かれることを待っているのかもしれない)。