道端の小石のように

考える日々。

近況

ブログを更新しようと思いながらも文章が完成しないので下書きだけ溜まっている

 

読んでる本の書評でもしようと思ったが、あまり乗り気になって読めている哲学書もない(マラブーの本の感想を書こうと思ってはいた)。この頃は相対論や量子論の勉強をやっていたので哲学の本もあまり読めていなかったけど、だいぶ落ち着いてきたので哲学の勉強を真面目に再開したいと思っている

 

ざっと今後書くべきテーマを一応ここに書いておきたい

 

・私が私でなくなる瞬間や状態とは具体的にどういうことか?

・主観的な自己意識が物理的にコピー可能であるという考え方にまつわる諸問題(単なる意識と主観的意識体験の差異とは何か?人格のコピーは本当に物理的に実現可能であるか?量子力学の観点からして完全なコピーというのは原理的に可能であるのか?)

・主観的な自己というものが、異なる主観的な他者の体験も含めて、一つの客観的な世界に時間的・空間的に存在しているという解釈は自明ではない

・主観的な意識体験にとって客観世界の存在は第一に想定されるものではなく、客観世界に対する信念(≠実在性)は間主観性によってもたらされる経験的な産物である(≠観念論的発想)

・世界が因果的必然性を伴うということと、私たちもまた内的な因果的必然性を伴うということ

・意識は知覚や感覚といったものを重要視してきたが感情についてはさほど議論になっていない、だが感情及び感情の質的体験は無視できないほどに自己意識にとって本質ではないか

・私たちの意識体験が眠さや辛さや冷たさといった感覚や質的体験を表現するというのは、私たちの意識がまさに眠さなどといった感覚に(のみ)適しているということ

・「私から見るあなた」と「あなたから見られる私」という言葉の意味の存在論的及びパースペクティブ的差異、またそれが実際に使用可能な概念であるということ

その他、どこかで言及しておきたいもの(逆転クオリアが自然に生じるかもしれないという考え方への進化論的な考察、クオリアを失ったメアリーという思考実験、重度の健忘症患者らの主観的意識の解釈について)

0922

夏も終わりに差し掛かってようやく涼しくなってきた。今年の暑さはやけに辛い感じがした。これから徐々に調子を取り戻してガッツリと本を読み進めていきたい。

 

今年はあまり哲学の勉強をやれなかったことが少々残念な気もする。けれども数学や物理に関する理解が多少なりとも深められたのでひとまず良しとしたい(これでカッシーラー相対性理論やボーム解釈なんかにも攻め入ることができるわけだ)。手を出したい分野は色々あるけども、あまりに欲張りになりすぎると中途半端に終わってしまうので慎重にならないといけない。

 

自分は哲学の議論や知識というのも探求のための一つのツールであると思っている。探求というものに関してゴール地点があるとするなら、それはより善い生き方や存在ができるようになることではないかと自分は考えている。これは実存主義的ないし人生論めいた言い分に聞こえるかもしれないが、そういう意味ではなく、知識(知)を求めることに意義があるとするならば、究極的には、この世界を以前よりも豊かなものとして享受するということを意味してしまうと思うわけだ。

 

もちろん単純に、目の前に未解決の問題があり、それを解き明かすということが生きることの意義に直結するわけではないし、そのために問題と向き合うわけではないにしても、それら全部をやや強引にひっくるめて、それすらも自分たちの存在の有り様として考えるしかないんじゃないかと。自分たちはそうやって愚直にも世界を解き明かしていくほかないのだと。それは自分たちが意識や本能を持った一個の生物にほかならないことの証左ではないか。

 

善い生き方といっても、それは物質的に(または精神的に)豊かであるとか快楽的というわけでもなく、生きることにつきものの不安や疑問や障害を取り除くことにすぎない。結果として、自分たちが何かをやっていくうえで問題が生じ、それらを一つ一つ片付けているだけかもしれない。何も知らない状態では不可解で神秘的に思うものであっても、正しい知識を身に付けていればそう思うことはなくなる。そういう意味で、探求のゴール地点というものは、世界に関する正しい理解といったものになるのではないかと思う。

 

個人的にそのような思いを抱きがちなのは、自己意識に関する世間一般のイメージだ。自己意識や理性といったものにまつわる先入観や誤解というものは、やはり哲学の教養の低い人々に多いと思われる。私見だが、そういった人々は理系の人間にも多いと感じる。最近だと人工知能の進展もあってか意識というものがより計算論的に理解されることが多くなっている気もするし、そこでは意識というものは単なる進化の産物として片付けられるか、ありもしない幻想であるかのように語られる。そのような見解が真実であるとは自分はまったく思わないし、最初から結論ありきな部分も見られる。

 

結果として、複数の分野を渡り歩かないと簡単に犯してしまう初歩的な失敗があるのは事実だろうし、それが些細なものであるか、深刻な手違いになるかはその問い次第であると思う。数学的な対象の実在を説く人もいれば、自己意識は幻想であると主張する人もいる。それが正しいか間違いか、しっかりと判定する必要がある。間違いのままで良かったことなど、これまでに一つも存在しなかったと信じたい(そして間違いというものは必ず解かれることを待っているのかもしれない)。

絶望とは未来の欠如である

毎回のように誰も得しない思いつきの話ばかりになってしまっているが、今回はもう少し個人的な、早い話が自分の実体験についてお話してみようと思う(そんなものが愉快な話題であるとは思えないが)。しかも、お話してみようと思うと言っておいてなんだけども、その実体験というのは何年か前に自分を襲った鬱とパニック障害の話になるので、それなりに重い話であるかもしれない(といっても、この体験が現在の自分に与えた影響は計り知れない。そういう意味でも現在の自分と切っても切れないエピソードでもある(誰得))。そんなに長話にするつもりはありませんが、かなりぼかした書き方になっているので御了承ください(くだらんと思ったらブラウザバック推奨)。

 

まず、重い鬱というものが実際にどのように診断されるのかは自分は知らないし、鬱であると医者に宣告されたわけではないが、生きてて初めて自殺したいという気持ちになったことがある。五年ほど前のことだ。その当時は、食欲はまったくといっていいほどなく、毎日のように動悸に襲われ、他人に対して自分から明るい話題を出すことすら不可能になっていた。むしろ、そのような人間同士の会話というものが困難になるほど精神的に余裕のない状態が続いていた。単純に言って、気分的な抑うつやノイローゼよりももう少し重い状態だと思っていた。手短に説明すると、将来的な不安があったのである。あまり詳細を伝えることはできないが、このときの苦しみの体験は、後から考えれば、それほど致命的な事態ではなかったように思う。なぜなら、それは結局のところ逃げられるものであり、逃げることが許されても良いようなものだったからだ。ここで言っている許されるというのは、誰かの承認が得られるというよりかは、それが如何なる生命体であったとしても本能的にその状況を拒絶できるような、言ってみれば弱い動物ですら狩猟や家畜化から逃れることが許されることであるような、完全に世界の自然な成り立ちから言うことのできるような許し、許されである。そうでない状況など自分たちに想像できるだろうか? もしあるとすれば、それは非人道的な、非道徳的な、いやむしろ人道や道徳といった――所詮は多かれ少なかれ進化の原理に還元できそうな――理性的なものではなく、人間からすれば何かしら致命的なエラーであり、もはや自然の範疇を逸脱してしまっているような異常な事態のことである。ある意味、それは狂気かもしれないし、“自然”という慈悲深いシステムからはかけ離れた非現実的な状態であるだろう。

もしも、自分たちがこの世界に広く認めているような摂理なり原理、それも非常に生物的であるような生命観、存在原理、道徳律といったものから完全に逸脱してしまっているような最悪の状況がこの世に成り立つ余地があるならば、それはけっして逃げられるようなものではないだろうし、進化という過程から生じてきた動物の世界なり秩序はまったく通用しない。自然もとい進化というのは、けっして生命体の在り方を理不尽にはしないわけで、人間がこの世界を図らずしも善いものとして理解でき、日常的に喜びを感じることができるのも、人間が自然という土壌に縛り付けられているからにほかならない。それは人間のみならず、ほかのどの生命体にも言えることだろう。確かに、そこにも苦しみがあり、想像を絶する苦しみすらある。だが、それが自然である限りは逃れられるものであり、それゆえ自分たちはすべての実存の形態を軽視することができる。生というものを非常に矮小なものとして受け取ることができる。生というのは取るに足らないものであり、宇宙のなかの滓やドットのように理解することができる。そこには重要な価値もなければ、最初から意味もなく自然発生した束の間の時間であると理解することができる。そのようにして、生はとても些細なものとして考えられるようになる。

話がやや脱線してしまったが、もう少しだけお付き合い願いたい。生がそのようにして取るに足らないものとして理解されるのは、まだそれが自然な、生物学的な色合いを帯びているからだろう。その反対に、宗教的な人々からすればまったく異なる理解がなされるかもしれない。そして、その意味では宗教的な人々は正しい判断をしている。彼らは生というものを非常に極端かつヒステリックに解釈する。それは正しい反応だと自分は思う。彼らは生というものと真剣に向き合うからこそ、そのような結論を出さざるを得ない。

これはまだそう昔のことではなく、三年ほど前のことだが、鬱に引き続いて、自分はパニック障害と思しきものに遭遇した。これは自分の存在の仕方や価値観を一変させるようなものだった、と言っておきたい。その体験は、人間がなぜ宗教的な回心をするのかを自分に納得させるには余りあるものでもあったが、自分はただそこで宗教心にひれ伏すようなことはもちろんなかった。最後に残ったのは何かしら哲学的なテーマ、実存主義的な何かだった。あのニーチェが辿り着いたような運命愛や永劫回帰などといった粗悪な代物に等しいものだった。同時に、それは十分に吟味されたものでもあった、とも思う。

人間が本当に絶望したとき――本当の意味で希望を失うとき――そこには苦しみ以上の何かがあると知った。それは一人の人間を発狂させるのに十分な力だった。発狂というものが何なのか、それを知らないままでいるのが普通かもしれない。少なくとも、自分が三年前に体験したそれは、人間的な鬱とは比較にならないような、そもそもそのような人間に備わった防衛機構とは根本的に異なるような、回線のショートのようなものとなる。文字通り、それは(動物としての)人間の理性的な判断からは十分に回答できない事態に遭遇してしまったときの、ただひたすらに増大する恐怖と不安に満ち溢れるだけの終わりのないプロセスである。もちろん、発狂というものは工夫次第で誤魔化すことはできる。しかし、発狂の原因となっている特定の理解そのものは誤魔化しようのない。そのとき、救いのなさを知らしめられたとき、それでも人間は何かしら救いがあると信じて、問題解決のために行動するだろう。それさえやっておけば何も心配はいらないと安心しきっていられるような解決策を導き出そう、と。それが理性的な動物たる所以なのかもしれない。だから、一つこう想像してくれれば十分である。問題解決がどうしても不可能な事態に遭遇してしまったとき、我々はどうするべきなのか、と。それは現実的な問題である。自分たちはけっして意識という劇場に立たされているのではないし、あるいはまたスクリーンから垂れ流される映像を眺めているわけではない。自我や生が冗談みたいなものだと思うことができるのは、それを冗談であると信じたいだけかもしれない。

 

さて、意外と下書きが溜まっていることに気が付いたが、どれもちゃんと記事にするにはひと手間かけないといけないっぽいので保留しっぱなし(億劫)

近況

ちょっと更新が停滞してしまっているので、この頃の近況とか普段思っていることを書いておくことにする。(一ヶ月おきの更新もわりと大変なのかもしれない)

 

再来年に小説を応募する予定で、来年いっぱいは執筆に専念することになる。哲学をやっていたりその他諸々の勉強をしたりしているのは小説の題材という半面もあるのだけど、だからといって小説のアイデアのために中途半端にそういうことを勉強しているのではなく、小説というのは自分の考えをしっかりとした形として表すだけのことにすぎない。というのは、たかだか小説なり文学であったとしても、そこでしっかりと伝えられる種類の知識も存在すると思っているため。

平たく言うと、物語というものは哲学の思考実験の具体例として機能するものだと自分は考えている。ただ、そういう種類の作品はとても珍しいと思うし、ほとんどまったく存在していないか、世間に受け入れられていないか、不完全に終わっていると感じる。そういう意味では、いま書いているものは(自分で言うのはおこがましいが)自身にとって完全であるような最高の作品に仕上げたいと思っているし、そのための核心となるアイデアも4年ほど前から持ち合わせている(ようするに構想期間ってやつだ)。というわけで、いまは肉付けの段階であり、作品や物語に説得力を持たせるために工夫を凝らしている準備期間ということになる。

自分は自分のことをクリエイターであると認識している。たぶん、これから先もそういう認識であり続けると思う。世の中の作品群に対して自分が持っている不満は、それが厳密な内容を持っていないということ、さらに言うと現代の先端的な議論を持ち込んでいないということだ。哲学がテーマになれば、いかにも皮相で、古臭い主張が登場する。SFに限っては、科学の知識の寄せ集めでしかないものだったり、あるいはまた哲学の観点が完全に欠落しているものも少なくない。それらは十全な知識体系として成り立っていない。それが自分にとって随分と前から不満だったので、自分でやったほうがいいだろうと思うようになった。

難解なテーマの作品は確かにウケないし、ヒットする見込みも少ないだろう。だが本当にそうだろうかと思う。最近は、難解な知識であると世間的に思われている心身問題やクオリア、あるいは分析哲学の問題を非常にスリリングかつわかりやすく説明している本も多数登場してきている。また、相対性理論量子力学に関する明快な入門書も多く存在しているし、ガロア理論位相幾何学といったものを高校生レベルから理解するための本も数多く出版されている。かくいう自分も数学や物理を毛嫌いするほど難しい、苦手だと思っていた時期があったが(実際に難しいことには間違いないが)、その多くは教え方(または教わり方)の問題であったり、自分の率直な疑問点や知りたいことが本に書かれていないことに起因しているようだった。ネットで検索すれば、非常にわかりやすく、同じ対象について説明しているはずなのにこうもわかりやすいものか、と感じられるような細かな説明がたくさん存在している。それは、一昔前の数学書の傾向があまり初学者向けではない専門的な内容であるのに比べると、そこまでの橋渡しをするための本が人気を博し、図やカラーで装飾されたビジュアル面に配慮した内容であったり、より噛み砕いた対話形式の内容もよく見かけるようになっている。実際にそれが人々をよりハイレベルな段階に導くとは限らないにしても、少なくとも不毛な数学嫌いや数学に対する偏見といったものを排除することには成功しているはずだし、それは商業的にも喜ばしいものであるはずで、優れた啓蒙書というものはどの分野においても必要であると思えるし、何も知らない人間を楽しませて、良い知識をもたらすことは、どの時代でも行われてきた必要な文化的な営みであると信じている。

難解な小説やフィクションというものに必要とされるものも、まさにそういうことではないだろうか。わかりにくい、わかりやすいといった単純な話なのではなく、もっと総合的に見てみれば、「その知識がどのように役に立つのか」とか、「なぜこの問題が歴史的経緯から生じてきたのか」などといった、ようするに「知りたい」「気になる」という気持ちを純粋に喚起させる説明や表現が大事であるのかもしれない。それは難しい知識に挑戦する際にとても大切なモチベーションになるに違いないと自分は信じている。

相変わらず堅苦しい内容になってしまったので、次回からはちゃんとウケのいい感じの日記を書きたい……(いやー、色々あるんですがね。読んだ哲学書の感想とか、思考実験とか。まあそれは追々やるということで……)

 

追記……誤解を招いてしまいそうなので、一応言っておくと哲学(あるいは哲学に関連する)の分野でも何かしら結果を残したい気持ちがあるので、そこだけは取り違えてもらいたくはない。まあ、随分と先の話になりそうである。老ホワイトヘッド然り、世の中にはなすべき物事の順序というものがあれこれ(言い訳

6月の近況

今年の半分が終わってしまった、といっても、そのことに大きな意味はない。人生の残り時間を考えることに意味がないように。

 

色々と書きたいこともあるので、適当につらつら書いていく。

 

去年くらいから現象学をしっかりやりたい気持ちになったので、ひたすら勉強してきた。その成果がだんだんと表れてきた実感がある。もとより現象学フッサールだけが自分の探求のモチベーションではないし、批判哲学もとい超越論的哲学のさらなる発展や乗り越え、できればそれが存在論の定式化につなげられればいいなと思っている。

あらゆる哲学の試みは、私なる自己意識から出発していると信じている。すべてはその発展形や分節化にすぎない。ただ、それは哲学のあまりにも自明な姿勢であるために誰もが常日頃から意識していない。それが自然科学や数学であっても、それらの営みはわれわれが共通に持っている認識から成り立つもので、フッサールのような哲学者はそれらを成り立たせる枠組みのようなものを探求したことは事実であるだろう。但し、それがあらゆる認識的活動の基本原理となることで客観科学の基礎づけや分析哲学の主要な議論に関連したり貢献したりしなかったりに関わらず、そういったことは目下、自分の唯一の目標とするものではないし、自分がやりたいことは最初から自己意識の完全な理解と世界との関係、しいては形而上学存在論に関わるものと決まっている。カント哲学におけるカテゴリーや先験的統覚といったものの表明や、ニーチェ力への意志ハイデガーの道具的存在といった現象的世界としての自己意識の現れの何らかの規定を行うものとしての探求に自分は関心があり、ほとんどそれだけのために哲学のテクストに関心を持っている。

個人的には、哲学史というものにはあまり興味が湧かない。ただ、哲学史を知っておくと彼らの主張がどういうものであったのか、その歴史的経緯がわかったりするし、不要な誤解をすることもなくなる。なにより、もはや形骸化しきっている心身問題や第一性質と第二性質といった議論の本来の論点など、それが実際に人間の理性や世界の真の姿というものを正当化できるか否かという実益的な狙いもあったはずであり、その意味では、自分はどちらかというと実益的な諸問題を、はっきり言うと実存的な諸問題を、ある程度まで解決できればいいと望んでいる。そのとき、自己意識というものは解決されなければならないアポリアとして浮かび上がる。

何が知れるか、何に触れられるか、何を疑いようのないものとして受け入れられるか、それが実存としての自己意識と深いかかわりを持っていることは明らかなことだ。もっと言うと、世界の「意味」とか「理由」とか「目的」など多岐にわたるもので、自己意識が成り立つということは、哲学の主要な論争で語られている以上に様々な考え方や捉え方が可能であるように思う。カテゴリー、信念、知識、言語、あるいは相互主観性や独我論という伝統的な種類の議論から、欲求、感情、記憶、知覚、空間といったあまり重要視されない“下位”なクラス、言うなれば物質的、生物学的なもの、こういったものが自己意識の成立として欠かせないどころか、この世界の存在と生成にまつわる原則を間接的に表しているのではないか、すなわちそれが人間という存在者と世界(あらゆる存在者の集合としての)の近さを示すというよりかは、私という自己意識はいったいどのような条件下で“成り立たなければならない”のか、ということ、またその条件を一般化したり普遍的なものとして理解することによって自己意識の確たる存在の根拠を、また自己意識を生み出すであろう世界の存在とそこに住まうすべての存在者を性格づける根源的な原理原則を公のものとすることができるのではないか。それによって自己意識というのは、単なる偶然の産物ではなく、それが成り立つような世界で生じる必然的な現象として理解され、それがまた世界をも同時に規定するといった対応関係を示したりするものかもしれない(そして、その結果として論理や因果や無や無限といったものまでもが何らかの必然として明文化される)。これがありふれた哲学の話題の一つであるからこそ、そこには容易に見過ごされがちな、自己意識というものをそれまでの哲学の伝統によって権威づけたり覆い隠したり盲目的に理解しようとする不誠実な態度が潜んでいる。つまり、これからは、まったく新しい自己意識の哲学や格律が求められるのではないかと自分は思っている。それは、カントが彼の生きる時代の哲学の殻を打ち破ったように、自己意識はまったく新しい哲学的試みの中心として再考されなければならない。そんな日がいつか訪れるのかもしれない。自己意識はそれくらい探求の幅の広いものであり、きわめて些細な事実がこの世に存在するとしても、それは一つの中心につながっているものかもしれない。それを見極められないと、哲学は、形而上学は、なんとも粗末で荒唐無稽な独断論と化してしまうように思う。

 

数学の進捗・・・微分幾何と表現論の勉強を始めました。手当たり次第に入門向けの本を読んで時間を潰している。来月からはスキーム論についても学んでいこうと思っている。トポロジーが色々と楽しい。早いところ一般相対性理論を理解したい気持ちもあるけれど、とにかく数学というのは論理なのだとつくづく感じる。論理というものが自分たちの頭のなかにどのように生じることについても今後は考えていきたいけれども、なにより数学というものは思考の導き手となり、世界に関する様々なモデルを示唆してくれるように思う。

数学的対象、物自体

哲学の言葉で「物自体」というものがある。物自体という発想はカントが明確に発起したものと言われているが、カント以前にもそういう発想をした人間はいたかもしれない(まあそれは置いておいて)

ふと思ったのが、物自体に当て嵌まるものが数学にも存在するのかということ。物自体は、時間や空間という性質を持っているこの世界や経験主体を作り出している根源的な対象(対象と呼べるのかわからないが)であると考えられる。

個人的な解釈になってしまうが、物自体そのものは我々の前にけっして現出することなく、それに触れることもできないとされるが、そのような我々の認識の可能性以前に、我々のような経験主体を生み出す大元として想定されなければならない概念となる。つまり、時間や空間といった我々の認識以前に成り立っているものであると考えられる(その点では、確かにイデアに近いところはある)

簡単にまとめると、それに触れることはできないが、それによって存在が生み出されているような何か、ということになる。だから、そんなものが実在するかどうかも決定できないし、とても空虚なものではあるけれど、確かにそのような根源的なものを想定しなければ辻褄が合わないような何かになる。

 

数学にもそういうアイデアがあるかどうか考えてみたけど、ぜんぜんわからない……いまのところは。この頃はガロア理論多様体論を勉強しているけど、もうちょっと進んでみると、そういう発想も出てくるのだろうか(それとも数理論理学や集合論の文脈になるのか)。たとえば、グロタンディークのような巨人であったならば、それを数学的にどう解釈しただろう、と気になったりする。

0218

意識の問題に関して、二つの検討されるべき明確な課題があるように感じた。

 

一つ目の問題として、この世界が(人間としての)自分の認識において閉じている可能性。もしも理解できない対象、認識できない対象が現前することがないならば、人間の理解や認識を超える知性や存在といったものは出現することができないだろう。これを論駁するためには、人間には理解できない対象の現前を、いかに合理的に解決するかにかかっている。因果的閉包性に抵触しない限りでか、それとも超越的な知性の現前を認めながらも何らかの解決策をもって適切に回避するか。

二つ目は、主観と客観の相違という問題。たとえば、自己というものが常に“同一の存在上の世界”に成り立っていると信じるための根拠はあるだろうか。もしも同一の世界に常に自己が継続しているとすれば、他人の意識もまた同一の世界の存在として解釈できる*1。その一方で、もしも自己というものは同一の固定的な世界に存立し続けているのではなく、あくまで自己が存続する限りでの枝分かれした世界の一つに自己が置かれているにすぎないとすれば、これは自己の同一性は保証するとしても、自己以外の同一性は保証しない。

いずれの場合も、認識論的な問いであると同時に存在論的な問いとなる。さらに、これらの一見して常軌を逸した問いは、ヒュームの因果の批判のように反証の難しい問題であり、充足理由律そのものを問うような形而上学的な問題である。

 

最低限、この二つの問題にじゅうぶんな回答を与えない限りは、人工的に意識を作り出したり、また他人の意識について考えることも独断にすぎないものとなってしまうのではないか。たとえ、それらの問題を扱うことが非現実的な形而上学的問いになってしまうとしても。

そしてまた、私たちの意識というものが脳や身体から、しいてはこの認識される限りでの世界から余すことなく生じているとするならば、意識を人工的に作り出すことは不可能ではないが、そのとき、意識の同一性という問題、同様に「私はなぜ私であるか」という私秘的で主観的な領域と、自然科学的な客観的な領域とのあいだにおける合理的な解決を与えるためにも、上記のような認識論的・存在論的な問いは必然的に表れるのではないかと予想している。

*1:だが、この考え方にも反論の余地はある。もしも他人の人格の同一性が記憶喪失などによって失われた場合には、それはその人が別の誰かになってしまったということを意味するかもしれない。主観的には、それは自分が世界から放り出されることを意味する。しかし、記憶喪失のような極端な場合を想定しなくても、もしかすると自我の同一性が失われる状況はありきたりなものかもしれない。それでも私たちは日常的に、同一の人格として、同一の存在上の世界において問題なく成り立っていると信じている。このギャップを埋めるためには、主観から客観を類推するという素朴な認識論的展開を批判しなければならないかもしれない。