道端の小石のように

考える日々。

0218

意識の問題に関して、二つの検討されるべき明確な課題があるように感じた。

 

一つ目の問題として、この世界が(人間としての)自分の認識において閉じている可能性。もしも理解できない対象、認識できない対象が現前することがないならば、人間の理解や認識を超える知性や存在といったものは出現することができないだろう。これを論駁するためには、人間には理解できない対象の現前を、いかに合理的に解決するかにかかっている。因果的閉包性に抵触しない限りでか、それとも超越的な知性の現前を認めながらも何らかの解決策をもって適切に回避するか。

二つ目は、主観と客観の相違という問題。たとえば、自己というものが常に“同一の存在上の世界”に成り立っていると信じるための根拠はあるだろうか。もしも同一の世界に常に自己が継続しているとすれば、他人の意識もまた同一の世界の存在として解釈できる*1。その一方で、もしも自己というものは同一の固定的な世界に存立し続けているのではなく、あくまで自己が存続する限りでの枝分かれした世界の一つに自己が置かれているにすぎないとすれば、これは自己の同一性は保証するとしても、自己以外の同一性は保証しない。

いずれの場合も、認識論的な問いであると同時に存在論的な問いとなる。さらに、これらの一見して常軌を逸した問いは、ヒュームの因果の批判のように反証の難しい問題であり、充足理由律そのものを問うような形而上学的な問題である。

 

最低限、この二つの問題にじゅうぶんな回答を与えない限りは、人工的に意識を作り出したり、また他人の意識について考えることも独断にすぎないものとなってしまうのではないか。たとえ、それらの問題を扱うことが非現実的な形而上学的問いになってしまうとしても。

そしてまた、私たちの意識というものが脳や身体から、しいてはこの認識される限りでの世界から余すことなく生じているとするならば、意識を人工的に作り出すことは不可能ではないが、そのとき、意識の同一性という問題、同様に「私はなぜ私であるか」という私秘的で主観的な領域と、自然科学的な客観的な領域とのあいだにおける合理的な解決を与えるためにも、上記のような認識論的・存在論的な問いは必然的に表れるのではないかと予想している。

*1:だが、この考え方にも反論の余地はある。もしも他人の人格の同一性が記憶喪失などによって失われた場合には、それはその人が別の誰かになってしまったということを意味するかもしれない。主観的には、それは自分が世界から放り出されることを意味する。しかし、記憶喪失のような極端な場合を想定しなくても、もしかすると自我の同一性が失われる状況はありきたりなものかもしれない。それでも私たちは日常的に、同一の人格として、同一の存在上の世界において問題なく成り立っていると信じている。このギャップを埋めるためには、主観から客観を類推するという素朴な認識論的展開を批判しなければならないかもしれない。