道端の小石のように

考える日々。

哲学の難しさ?

今年はカントについて真面目に理解してみたいので色々と勉強している。現代のカント解釈といったら、ジョン・マクダウェルは外せない。なのでマクダウェルの『心と世界』を読んだりしているけど、哲学における難しさとは何かという疑問が思い浮かんだりする。

 

自分はかなり以前から、自我論を中心にやっている。なので現象学や超越論哲学のことを難しいと感じることは少ないし、そこからふんだんにアイデアを得ることもできる。たとえば主観体験、人格の同一性、記憶、あるいは時間論、存在論などといった、それなりに古典的なテーマにかじりついているし、これらの議論から得られる洞察は非常に多い。

 

一方で、このような議論を難しいだとか無意味だと思う人間も少なくはないようだ。無意味というのは、まだ理解できるかもしれない(まあ、これは哲学に限らない話だし)。でも難しいというのはどういうことだろう? 難しいというのは、うまく入り込めないとか、好きになれないとか、目的意識がわからないということだろうか。何を言っているのかわからないとか、退屈だとか、そういうことなんだろうか。そういったことは一考に値するかもしれないが、哲学が特別に難しいというわけではない。あえて言うなら、哲学は日常的な経験から離れているためにイメージしにくいものがあったり、哲学の内部でも言われたりするように擬似問題のようなものが潜んでいたりする。しかしそういったことも順を追って理解していけば問題なく理解できるだろうし、その問題意識も汲み取れるようになるはずだ。

 

自我論は生物学とも相性が良かったりする。生物学というよりかは生物学の哲学かもしれないし、あるいは進化論かもしれない。このような自我や心の生理的な根拠付け(またはそれに類似した発想)は、現代であればダニエル・デネット、ルース・ミリカン、ポール・チャーチランド、古くはエルンスト・マッハ、ユクスキュル、メルロ=ポンティなどがいる。もっと遡れば、じつはオッカムやヒュームにもこのような発想が認められる。つまり進化論は心理主義(≠心理学)や経験論として解釈できるかもしれないが、いま挙げた面々については自我論というよりかは遥かに心の哲学philosophy of mind〉である*1デネット現象学的な議論も展開するが、やはりそれはフッサールハイデガーとは一線を画したものであると見るのが正しい。そもそも彼の場合は真正の現象学ではないという意見もある。

 

自我論(と自分が度々呼んでいるもの)とは、スピノザ、ヒューム、カントらの業績からなる哲学の一分野であると思っている。さらに、ここから枝分かれした分野として現象学心の哲学があるのだと自分は解釈しているが、自我論というのはカテゴリー論とも密接に関係しているので、ほぼ超越論的哲学である。またハイデガー曰く、存在論現象学なくして成立しなかったとまで言い切る。それはまあ置いておく。ところで、自我論というと、これはもう明快にカントになってしまうと思われるのだが、一方でカントの現代的な解釈というのは迷走していると思われる。というよりも、カントの提起した問題をあえて無視している、とまで感じられる。

 カントは結局は何をしたんだ? と聞かれれば、自分ならば「世界の成立条件の探求」と答えるだろう。ようするに、それは現象学のことか? と思われた方は鋭い。でも、たぶんだけど現象学ってカントやそれ以前の哲学者がやったような深いところまでは意図的に探求を控えている*2。だってそんなのわかるわけないじゃん、ってなるから。自分もそう思う。後期フッサールは確かに発生的な現象学を標榜したけれども、それが上手く行ったかどうか(というか、フッサール自身にとって満足のいくものであったか)は定かではない。それでもカントやフッサールを勉強する理由は、自我や自意識とは何か、というテーマを幅広く扱うことができるため。自我って進化の産物だよね、とか、論理や因果性ってアプリオリな条件だよね、とか、そうすることで「他我」や「意識の有無」を議論する際に有効になる。事実、カントも他我=間主観性というものを一部で取り扱っている。カントにとって、それは倫理的な目論見を達成するためにも必要とされたようだ*3

 

ここまで書いてみて思ったが、哲学が難しい、わかりにくいというのは、その全体図がはっきりしないからかもしれない。どのような歴史があり、どのような派閥があり、どいつらが対立しているのか、それがいまいち謎めいている。全体図がわかってしまえば、ああこういうことかと納得できるし、ある特定の話題に関して集中すれば論理の運びもわかりやすと思う。もちろん、哲学史を中途半端に理解しても、それによって何もかもカバーできるわけではない。哲学者はそれぞれ独自のアイデアを持っているものだし、あまりにも独特すぎるから、哲学史として一挙に紹介するのは困難だったりする。ただ、明らかなことは、もちろん彼らは適当なことを言っているわけではないということだ。お粗末な議論もあるし、空想の域を出ないものも多いが、ただ、それは哲学に限らないことなので、これもまた哲学のわかりにくさを説明するものではない。

 

というわけで、哲学が難しいというのは自分たちが単純に哲学に馴染みがないからだと思う。なんとなく近寄りがたい、なにをやっているのかわからない、変な噂が多い、こういう理由で先入観を持っている可能性もある。比較的新しめの哲学の本を読んでみればイメージが変わるかもしれない。

 

なるべく現代の哲学を学んでみたほうがいい。いきなりカントやハイデガーを読んでみる必要はない。哲学っていうのはかなり広い。それでいて、誰もが面白い議論を展開している。どうしてもカントやハイデガーを読みたいのであれば、そこに何を期待しているのかを自覚しておくべき。数学の勉強をするときに、いきなりガウスオイラーの著書に当たる人は少ないだろうし(ユークリッド原論ならまだありそう)、そういう方は最初から目的意識を持っている。つまり、だいたいそこに何が書かれているかも事前に承知している。自分が現代の哲学者を先に読んだほうがいいと思うのは、大抵の場合、それらが洗練されていて馴染みやすいため。形而上学はほぼ駆逐されているが、それが良いか悪いかは置いておいて、とにかくわかりやすいというのがある。それでいて簡潔かつ強力な議論も展開されている(もちろん、非常にテクニカルな議論も存在する)。これについては体感でしかないので何とも言えないけども、昔の哲学者が難しいとされるのは文章の晦渋さにもあると思う。まずは現代的な見方を深めて、入門書などで予備知識を得てから、過去の哲学者を批判的に理解していくのがベターだと思います。

 

哲学を理解してどうしたいのかっていうのは自分もよくわかりません。そんなのは人それぞれであって、その目的の大きさも大小さまざまなので。ひとまず哲学は難しいものではないし、わかりにくいものではない、と言っておきましょう。いったい誰に向けて書いているのかわからなくなってきたので、このへんにしておきます。

*1:分析哲学の入門書では、あたかもデカルト以来の哲学が例外なく分析系であると紹介されることがある。これが行き過ぎた見解であるかは自分には判断がつかないが。

*2:一般には、フッサール現象学の企てというものは現象的世界の構造の探求であり、エポケーから発して自然的態度や確信の条件を理解するものだと紹介される。その一方、世界そのものが何であるか、という存在論的な探求にはあまり熱心ではない。フッサールがそれを何も考えなかったわけではない、これについてはいずれ。

*3:「カントが人間を「理性的存在者」と規定しているのは、カント倫理学の基軸を成すのが「超越論的方法」であることによる〔…〕カントは、ニュートン物理学における自然的世界の存在機制を念頭に置いて、複数の人格が存在していれば、それらの人格は道徳法則によって倫理的共同態に在らしめられるべきであることを、自明の事柄であると考えた。」鈴木文孝『カントとともに』p.67