道端の小石のように

考える日々。

絶望とは未来の欠如である

毎回のように誰も得しない思いつきの話ばかりになってしまっているが、今回はもう少し個人的な、早い話が自分の実体験についてお話してみようと思う(そんなものが愉快な話題であるとは思えないが)。しかも、お話してみようと思うと言っておいてなんだけども、その実体験というのは何年か前に自分を襲った鬱とパニック障害の話になるので、それなりに重い話であるかもしれない(といっても、この体験が現在の自分に与えた影響は計り知れない。そういう意味でも現在の自分と切っても切れないエピソードでもある(誰得))。そんなに長話にするつもりはありませんが、かなりぼかした書き方になっているので御了承ください(くだらんと思ったらブラウザバック推奨)。

 

まず、重い鬱というものが実際にどのように診断されるのかは自分は知らないし、鬱であると医者に宣告されたわけではないが、生きてて初めて自殺したいという気持ちになったことがある。五年ほど前のことだ。その当時は、食欲はまったくといっていいほどなく、毎日のように動悸に襲われ、他人に対して自分から明るい話題を出すことすら不可能になっていた。むしろ、そのような人間同士の会話というものが困難になるほど精神的に余裕のない状態が続いていた。単純に言って、気分的な抑うつやノイローゼよりももう少し重い状態だと思っていた。手短に説明すると、将来的な不安があったのである。あまり詳細を伝えることはできないが、このときの苦しみの体験は、後から考えれば、それほど致命的な事態ではなかったように思う。なぜなら、それは結局のところ逃げられるものであり、逃げることが許されても良いようなものだったからだ。ここで言っている許されるというのは、誰かの承認が得られるというよりかは、それが如何なる生命体であったとしても本能的にその状況を拒絶できるような、言ってみれば弱い動物ですら狩猟や家畜化から逃れることが許されることであるような、完全に世界の自然な成り立ちから言うことのできるような許し、許されである。そうでない状況など自分たちに想像できるだろうか? もしあるとすれば、それは非人道的な、非道徳的な、いやむしろ人道や道徳といった――所詮は多かれ少なかれ進化の原理に還元できそうな――理性的なものではなく、人間からすれば何かしら致命的なエラーであり、もはや自然の範疇を逸脱してしまっているような異常な事態のことである。ある意味、それは狂気かもしれないし、“自然”という慈悲深いシステムからはかけ離れた非現実的な状態であるだろう。

もしも、自分たちがこの世界に広く認めているような摂理なり原理、それも非常に生物的であるような生命観、存在原理、道徳律といったものから完全に逸脱してしまっているような最悪の状況がこの世に成り立つ余地があるならば、それはけっして逃げられるようなものではないだろうし、進化という過程から生じてきた動物の世界なり秩序はまったく通用しない。自然もとい進化というのは、けっして生命体の在り方を理不尽にはしないわけで、人間がこの世界を図らずしも善いものとして理解でき、日常的に喜びを感じることができるのも、人間が自然という土壌に縛り付けられているからにほかならない。それは人間のみならず、ほかのどの生命体にも言えることだろう。確かに、そこにも苦しみがあり、想像を絶する苦しみすらある。だが、それが自然である限りは逃れられるものであり、それゆえ自分たちはすべての実存の形態を軽視することができる。生というものを非常に矮小なものとして受け取ることができる。生というのは取るに足らないものであり、宇宙のなかの滓やドットのように理解することができる。そこには重要な価値もなければ、最初から意味もなく自然発生した束の間の時間であると理解することができる。そのようにして、生はとても些細なものとして考えられるようになる。

話がやや脱線してしまったが、もう少しだけお付き合い願いたい。生がそのようにして取るに足らないものとして理解されるのは、まだそれが自然な、生物学的な色合いを帯びているからだろう。その反対に、宗教的な人々からすればまったく異なる理解がなされるかもしれない。そして、その意味では宗教的な人々は正しい判断をしている。彼らは生というものを非常に極端かつヒステリックに解釈する。それは正しい反応だと自分は思う。彼らは生というものと真剣に向き合うからこそ、そのような結論を出さざるを得ない。

これはまだそう昔のことではなく、三年ほど前のことだが、鬱に引き続いて、自分はパニック障害と思しきものに遭遇した。これは自分の存在の仕方や価値観を一変させるようなものだった、と言っておきたい。その体験は、人間がなぜ宗教的な回心をするのかを自分に納得させるには余りあるものでもあったが、自分はただそこで宗教心にひれ伏すようなことはもちろんなかった。最後に残ったのは何かしら哲学的なテーマ、実存主義的な何かだった。あのニーチェが辿り着いたような運命愛や永劫回帰などといった粗悪な代物に等しいものだった。同時に、それは十分に吟味されたものでもあった、とも思う。

人間が本当に絶望したとき――本当の意味で希望を失うとき――そこには苦しみ以上の何かがあると知った。それは一人の人間を発狂させるのに十分な力だった。発狂というものが何なのか、それを知らないままでいるのが普通かもしれない。少なくとも、自分が三年前に体験したそれは、人間的な鬱とは比較にならないような、そもそもそのような人間に備わった防衛機構とは根本的に異なるような、回線のショートのようなものとなる。文字通り、それは(動物としての)人間の理性的な判断からは十分に回答できない事態に遭遇してしまったときの、ただひたすらに増大する恐怖と不安に満ち溢れるだけの終わりのないプロセスである。もちろん、発狂というものは工夫次第で誤魔化すことはできる。しかし、発狂の原因となっている特定の理解そのものは誤魔化しようのない。そのとき、救いのなさを知らしめられたとき、それでも人間は何かしら救いがあると信じて、問題解決のために行動するだろう。それさえやっておけば何も心配はいらないと安心しきっていられるような解決策を導き出そう、と。それが理性的な動物たる所以なのかもしれない。だから、一つこう想像してくれれば十分である。問題解決がどうしても不可能な事態に遭遇してしまったとき、我々はどうするべきなのか、と。それは現実的な問題である。自分たちはけっして意識という劇場に立たされているのではないし、あるいはまたスクリーンから垂れ流される映像を眺めているわけではない。自我や生が冗談みたいなものだと思うことができるのは、それを冗談であると信じたいだけかもしれない。

 

さて、意外と下書きが溜まっていることに気が付いたが、どれもちゃんと記事にするにはひと手間かけないといけないっぽいので保留しっぱなし(億劫)