道端の小石のように

考える日々。

予定は未定

ざっと勉強して位相空間論の入り口くらいまでこぎ着けたけども、今年中に不完全性定理なんかを理解するのは少し難しい気がした。できることならレーヴェンハイム - スコーレムの定理をきちんと理解できるようになりたいけど、来年になるかもしれない。実際に、よくわからない。順調に理解していると思いきや振り出しに戻る、ということもある。わかったつもりでいても意味ないし、ちゃんと理解するってなると、せめて他人に上手に(くどくどと理屈っぽく)説明できるくらいの知識は必要だと思う。まあ、このへんは理解できて当たり前のことだろうけど。

しかし本当にやりたいことは生物学であって、どちらかというと化学にも関連している。遺伝子が対象であったり、生命現象そのものが対象であったり、どのようにして生命体が知性や意識を得るのか、色々と。欲を言うと量子力学だって理解できるようになりたい。どのみち、そういうものは哲学の対象となる。逆に、そっちの方面に詳しい方々は哲学の理解が中途半端だから、エヴェレット解釈の議論なんかで対照的な意見を持ったりする。数学的プラトニズムとかもそうだし、実際のところ、超越論をちゃんと理解していない(さらにはストローソンの議論なども知らない)方々の哲学に対する批判というものは、どことなく藁人形論法な感じがする。とにかく、何を言っているのかわからない。自分はそういう人間を否定したりはしないが、カントを退けるのであれば、それ相応の理由や説明をしてもらわないと困る。彼らの言い分は、カントは権威的であるとか、理性は信頼できないとか、ようするに古代ギリシアみたいな素朴な存在論を支持するかのような態度が見られる*1。もしかすると、哲学に求めているものにこだわりがあるのかもしれないし、最初から、それ以外のことは求めていないのかもしれない(知りたいことだけを知る、というのは視野の狭さ以外のなにものでもないと思うが)。

どのみち、現象学の知識は必要となる。どのみち、というのは自分の基本的な姿勢となる。どのみち必要になるから、遠回りになったとしても知っておくべきだろう。大器晩成という言い方は大袈裟だけども、どのみち超越論や現象学の理解が必要になるならば、それもやっておくに越したことはない。それがわからずに、延々と哲学の無理解をさらしているのは不愉快とすら感じる。でも、自分もなるべくは特化型でありたいし、現象学(と超越論哲学)、数学、生物学で何ができるのか、ちょっと思案中。まあ、なんか面白いアイデアが浮かべばそれでいい。一生を棒に振る覚悟でやらなきゃ何もできない。

今月はもうちょっと集合論やって、来月から群論。解析と分析(哲学)もちまちまやっていかないと。今年は飛躍するのねー。

*1:アリストテレスはわりと現代の自然科学に通ずる態度を持っている。そういうのは一般に素朴実在論と呼ばれるものだけど、アリストテレスの場合はもうちょっと特別だ。「魂のうちの考える部分は、無感覚であるにせよ、対象の形相を受けとることができなくてはならない。つまりそうした部分は、対象であることなしに、その対象と潜在的に同じものでなくてはならない。」(霊魂論)わかりやすく言い換えると、私たちは外部にある客観的な対象の“熱さ”や“丸さ”をそのものとして心に受けとる、つまり素朴実在論というよりも直接実在論である(これに関してはパトナムの『心・身体・世界』を参照)。哲学の用語で言うと、第一性質、第二性質がそれに近いと思う。だが第一性質を直接に認識・理解できるという考えは、科学における仮説的な態度にすぎないものではないだろうか。無論、これに相対する考え方というとセンスデータ論になると思われる。