道端の小石のように

考える日々。

夢体験の奇妙さ

夢体験はときおり不思議な感覚をもたらすが、それらのことが精神医学や心理学の領域を越えて議論されることはそれほど多くないかもしれない。夢体験が奇妙なのは、その感覚や状態ではなく、夢体験というもの一般に対する自分たちのある程度共通した見方であるのかもしれない。それによれば、夢体験は、必ずや自分の知っていることの寄せ集めとして体験されるものである。つまりそれは、ばらばらの記憶や表象のピースから成り立っているちぐはぐな幻想や幻覚体験のようなものだと考えられるかもしれない。

 

しかし、夢体験はときとして主観的体験として興味深いケースをもたらす。たとえばそれは、夢体験のなかで何か新しい発見をすることである。夢体験であなたはクイズ番組の挑戦者であり、それなりに論理的な問題、簡単な計算だとか、パズルのようなものを解いているとしよう。あなたは夢体験のなかで問題を理解し「わかった!」と体験する。そして見事に答えを的中させる。では、この一連の夢体験とは、通常の夢体験と同じように「自分がそこにありながらも自分の意思を越えて流れている」ものであるのか、それともそうではない明晰夢のようなものであると考えるだろうか? つまり、これらの“夢劇場”について、前者については「自分」というものがスクリーンで上映される映画の一部でもある反面、後者はそのときどきでスクリーンを観客席から眺める主体である。もしも後者が認められるならば、夢体験というものは覚醒状態により左右されるものかもしれないし、しかもそれは明らかに現実的な体験である。

 

夢体験を現実体験と明確に区別するような見方は、より注意して疑うならば、それほど自明の事柄ではない。夢体験もまた現実体験の側面であり、自分たちが経験することの多くが夢体験ではないことを理由として夢体験を現実体験から排除するならば、それは現実体験というものを適切に捉えていない可能性もある。これらの推察から、現実を体験する自己主体について様々な提案を示唆することができるようになる。自分たちが日常的に体験している現実体験なるものは、現実の一つのバリエーションでしかないだろう。それは絶対的でもないし、たまたまそうであるにすぎないことかもしれない。しかし、夢体験においても主体が成り立っているのは明白である。

 

また、夢体験における主体的な時間感覚というものも、これを客観的に観察する術があるのかは興味深い点でもある。そもそも、夢というものは夢を観ている最中に時間的に進行するものなのか、それとも目覚める瞬間にいっぺんに構成されるものなのか、そしてまた起床時に完全に忘れられた部分はどうなってしまうのか、それは最初からなかったことになってしまうのか? ということは、夢を観たということは、それがすべて記憶されている限りの内容にほかならないのではないだろうか? これらは夢体験における興味深いトピックであるに違いない。夢体験を神秘的な領域として理解しようとするのはなかなか厳しいが、何かそれが異様で捉えどころのない体験であることは確かだろう。むしろ、夢体験は日常的な現実体験について面白い視点を与えるのではないか、と思わなくもない。