道端の小石のように

考える日々。

記憶と感情の関係

 ちょっと疑問に思ったことを書いてみる。

 

 人格の同一性について、多種多様な発想を用いることができる。例えば、私たちはかなり自由に特定の信念を持つことができる。「チョコレートは甘い」とか「この世界は不可知だ」でも、なんでもいい。もちろん、そのような信念を持つことは自分自身の同一性に何ら影響を及ぼしはしないだろう。一方で、もしもこれらの信念が“強制的に”与えられたなら、その限りではないかもしれない。


 私は安物のインスタントコーヒーを「泥のような味」であると思っているが、私がその信念を捻じ曲げることはない。しかし、誰かが私の脳味噌をいじくり、私が安物のインスタントコーヒーに対して「喫茶店で出されるような申し分のない味」という信念を持つように“矯正”したならば、はたして私はそこで自己の同一性をじゅうぶんに保っていると思われるだろうか? そのとき、私はありとあらゆる安物のインスタントコーヒーについても同様の意見を持つであろうし、それを自分で疑いはしない。だが、それは自らの過去の経験と確実に反しており、そのような信念を持つに至った原因を思い出す際に、何らかの支障が生じるかもしれない。私は日常的にそれを摂取し、それを適切に評価していた時期があったから、そのような特定の信念を正当に持つに至ったが、もしも信念だけが変更されたとしたら、それまでの日常的な経験のほうはどうなってしまうだろう? これらのことが支障なく遂行されるためには、記憶そのものも変更しなければいけないかもしれないし、もちろん味覚は変化していないのであれば、私がインスタントコーヒーを美味しいと確信していたとしても、実際に飲んでみることで非常に苦いという思いをするかもしれない。そしてまた、私は過去に「安物のインスタントコーヒーは喫茶店で出されるような申し分のない味だ」という信念を持ったことは一度もないし、まさにそのような継続的かつ整合的な記憶を持つからこそ、自らを同一の人格としてじゅうぶんに保つことができる。実際に、「安物のインスタントコーヒーは喫茶店で出されるような申し分のない味だ」という信念をもしも「私」が持っていたならば、それは私ではないはずだし、私はその「私」を同一の人格として認めることもできないだろう。まして、それを実際に経験することもないだろう。それはまったくの別人である。

 

 ここで、人格の同一性、感情、記憶にまつわる思考実験を提案することができるかもしれない。私たちは日常的に、「楽しい」や「悲しい」という感情や気分を抱いている。また、これらの感情を拠り所として、自分の記憶からそれに該当するエピソードを参照することができる。例えば、友人と一緒にライブを見に行って大騒ぎした経験とか、大好きなペットを失ってしまった経験など、私たちは感情を手掛かりにして過去の記憶*1を探索したり、参照したりすることができるし、そもそも、それらは該当する出来事が起こる際に感情とセットで経験されることが前提となっている。

 

 ではここで、「カノシイ」という感情を想定してみよう。もちろん、カノシイという感情は実在しない。それは私たちの知る種類のものではない。よって、これを具体的に説明することは無理である。だが、このことが示しているのは、特定の感情の種類を決定するのではなく、いまのところ私たちは持っていないけれど私たち以外の存在であれば持っていたりするかもしれない未知の感情を想定することである。また、私たちは脳を人為的に改変することによって、将来的に新しい感情を獲得することができるかもしれないし、人間以外の動植物には進化的に人間とはまったく異なる系統の情動システムが備わっているかもしれない。

 

 私たちは「カノシイ」という感情を理解しないし、それを経験することもない。よって、もしも「カノシイ」のような未知の感情を抱くような動物が実在するとしても、私たちはその動物の感情や気分を察することはないし、その感情が成り立っているかを推論することすら不可能に思われる*2。これは逆に考えれば、「楽しい」や「悲しい」を理解しない動物からすれば、まったく同じように自分たちの感情は理解されないということを意味する。それは地球外のエイリアンであったりするかもしれないし、人間の作り出した人工的な知能であるかもしれない。彼らは人間が泣いたり笑ったりすることを理解しないかもしれないし、はてまた逆転クオリア*3のように誤解を呈するかもしれないし、それらは無意味な動作として処理されるかもしれない。

 

 ここで一つの問題提起を行うことができる。私たちは数え切れないほどに「楽しい」や「悲しい」を経験したり、これらを手がかりとして特定の記憶を思い出したりするのだが、もしもそれらの感情のいくらかを失ってしまったならば、私たちはそれにまつわる出来事を思い出せなくなるかもしれないし、経験できなくなるかもしれない。また、それらの感情があったことすらも完全に忘却されたなら(つまり、その時点では完全に理解できない感情、ようするに「カノシイ」も同然となってしまったならば)、私たちは「それらの感情を手掛かりとして過去の記憶を参照、探索した」という経験すらも思い出せなくなるか、あるいは曖昧で齟齬のある記憶になってしまうかもしれない。楽しいや悲しいの感情が完全に失われ、それらの感情をまったく思い出せないならば、その概念についても、感触についても、それらを基準とした価値観や諸概念すらも理解できなくなってしまうことだろう。

 

 もう一つ、もしも自分たちが幼い頃に何かしら特有の感情を持っていたが(そのようなものが実在するかはわからないが)、それが成長と共に忘れられたとしたならば、その感情をふたたび手に入れない限りは、それらの感情に関係する事柄を思い出すことすらも不可能であるはずだし、幼い頃の自分がその感情を手掛かりとして何かを経験したり探索したことすらも不明瞭な記憶として残るだろう(もしくはまったく残らないかもしれない)。そこでは、漠然とした「何かあったような気がする」という記憶や感慨しか残らないかもしれない。もとより、楽しいや悲しいという重要な感情を失ってしまうこと、完全に忘却してしまうということは、それにまつわる一切の事柄と深く関わるのであり、私たちの主観的体験に甚大な影響を及ぼすかもしれない。

 

 そうすると、特定の感情を失うということは、私たちがそれを手掛かりとして過去の記憶を探索したり、あるいは現実の対象とそれを結びつけたりなどといった、主観的体験(または自我)としての日常性や恒常性を失うことを意味する。それは普段の生活からは起こり得ない経験であり、私たちは日常的にあらゆる志向的対象を特定の感情に結びつけていて、同様に、私たちは幾らかの感情をベースにして自らの物語的な自己を構成していると考えられるから、それ故に、特定の感情を失ってしまうことは探索の指標を失うということ、重要な判断基準を失うということ、これまでに構成されてきた諸々のエピソードから意味を剥ぎ取ってしまうことを意味する*4


 このことから、私たちが持っている記憶というものは、私たちの主観的体験のなかに(こう言ってよければ脳のなかに)“実体”として具体的なかたちとして備わっているのではなく、“記憶そのもの”がカントの物自体のように、それにアクセスしたり参照したりする主観(=主体)によって多様に解釈されるものだと考えるのが自然であるかもしれない*5。同時に、主体にとって、記憶というものは主体の存立条件に欠かせないものであるため、私たちが普段から理解している記憶とは、謂わば客観的に理解された対象であり、主観的な〈今性〉によって理解されているものではない。もしも記憶の解釈を客観から主観へ、普遍性から今性へと転換するならば、私たちは記憶を所有しているのではなく、記憶と共にあり、場合によっては記憶を再解釈することによって日常的体験を再生的に可能としていると考えられるようになる*6

 

 しかし、私というものがまさに記憶の集まりや連合として構成されているなら、記憶の集まりや連合たる私たちが記憶そのものを審査したりするのはかなり奇妙に聞こえるに違いない。私たちは記憶というものを信頼せざるを得ないのであり、どんなに自分の記憶を疑ったとしても、その記憶が自分自身を生かす血肉であるという事実からは免れ得ない。そうすると、私たちが記憶を再解釈する際に、通常は起こり得ないような種類の再解釈の仕方、つまりは冒頭で述べたような「安物のインスタントコーヒーは喫茶店で出されるような申し分のない味だ」という私のものではないはずの信念を持ってしまったり、未知の記憶や未知の感情を手に入れたり、あるいは失ったりする場合があれば、そのときは自己の同一性を保証するものは存在しなくなるかもしれない。そうなった場合には、文字通り、私は私ではなくなってしまうことだろう――そこにある記憶の大半が同一であるにも関わらずである。このことが示唆するのは、同一性というものは基本的には整合的な自己の物語性として成り立つのであり、それが崩れるような主体のあり方は同一性を保証しない、という可能性である。


 結論として、次のように言うことができる。私たちは記憶を明瞭な実体として持っているわけではない(持っている、という呼び方も相応しいものではない)。私たちは常に「推移的」に、記憶を現在の固有の観点から再解釈すると同時に、私たちは記憶によって生かされている。また、記憶の解釈はそのときどきの感情や諸々の状態や判断基準によって行われるものであり、これが健全なかたちで行われている限りは、私たちは自己の同一性をじゅうぶんに保証できる。もしも主要な感情が突然に失われたり、物語的な自己の構成要素や価値観が失われてしまうならば、それは人格の同一性に対して著しい影響を与えてしまうとも考えられるだろうから、これらは破綻や分裂を意味するかもしれない。それに、新しい感情が備わるということは、必ずしも感情が失われることと等価であることを意味しないだろうし、私たちは日常的に過去の記憶を忘却するが、自分が体験したことのない記憶が備わることはありえない。これらの問題は、人為的に感情を取捨選択したり、記憶を操作したりすることが可能になったときに想定されるかもしれない。

*1:「過去の記憶」という言い方には不自然な響きがある。というのも、未来の記憶はありえないし、記憶は必然的に過去の出来事を対象としている。大昔の記憶、という言い方なら可能だろうけど。

*2:もしも貴方がそれが可能だと言うならば、あなたは人間中心的な見方から脱してコウモリやタコの気持ちを理解するのかもしれないが、せいぜいそれは行動主義的なアプローチに留まるだろう。

*3:実際の逆転クオリアとは多少異なるが、明らかに私たちと同じような喜びの振る舞いをしたり、それに該当する報酬系が見つかるにも関わらず、それは喜びではなく苦しみを意味している可能性も捨てきれない。これはPutnamの多重実現可能性に近いかもしれない。

*4:この手の議論はモリヌークス問題と似ているかもしれない。

*5:カントは「概念無き直観は盲目である」という言葉を残しているが、今回の話と無関係ではないと思っている。

*6:当然、記憶というものが過去の出来事の保存であるという見方を否定するつもりはない。