道端の小石のように

考える日々。

フィクションがフィクションであるために

自分はフィクション作品が好きなので、それについて余計な考えを張り巡らせてしまうことがある。フィクションとの向き合い方とか、いかにして自分たちはフィクションを理解しているか、などなど。というわけで、ちょっとした思い付きをここに書いてみたい。

 

フィクション作品において、劇中の舞台が東京である、というものは珍しくない。実写作品であれ、アニメ作品であれ、小説であれ、漫画であれ、ゲームであれ、実在の地域、地名、出来事などがストーリーに登場するのはフィクションではごく当たり前だ。では、自分たちはそれをどのようにして信じているのだろう?

 

「どのようにって、そりゃ実在する対象が描写されているんだからそう信じて当たり前じゃないか、渋谷駅やハチ公が出てくればそこは渋谷のはずだし、東京タワーが出てきたり上空からの一望シーンがあれば港区だと判別できる、そんなのは誰だって疑いはしない」

 

では、そのような実際の地名や景観さえ登場すれば、そこがもう実在する場所をモチーフにしていると信じるに足りる根拠は十分だということだろうか? いや、モチーフという言い方は正しくはないだろう。だって自分たちはそれを「東京」とか「港区」と認識しているはずだし、それは確かにフィクションの世界内ではあるが、それがまさに特定の場所であるということは確信している。誰であれ、東京タワーが出てくる場所を、パリやニューヨークだと見間違うことはないはずだ。

 

ところで、それが特定の場所であると信じるための根拠は何だろうか。言い換えれば、それさえ揃っていれば特定の場所であると信じるに足るほどの強い根拠とは何だろうか。

 

つまり、こういうことだ。「本当にそれは港区だろうか? よく観察してみよう。実際の港区にはこんな建物はないし、この建物は数年前に潰れたはずだ。それなのに、最近建てられた建物と同時刻に存在している! いや、もっと細かく言うならば、この時間帯にいつもジョギングしているはずの老人がいないし、あの駐車場に停まっている車も違っている。よって、これは本当は港区ではない。そもそも、これはどの時代の港区なのか、本当にこのような状態の港区が実在したのだろうか」と返答されたなら、それを単なるいちゃもんや場違いな文句と見なすだろうか、それともそれを正当な指摘として受け入れて、それは港区ではないと考えを切り替えるだろうか。

 

ここで、タイプ - トークン説*1が端的に示しているように、実在する現実の港区はタイプであり、フィクションの世界の港区はトークンにすぎない、と考えることもできるだろう。しかし、これに関しては自分がいま言いたいことではない。いま問題となっているのは、それをトークンと見なせるほどの根拠がどこに存在するのか、ということだ。

 

ありきたりな方法として、境界性論法*2を用いることにしよう。ここでは、渋谷を対象として、渋谷駅、ハチ公、スクランブル交差点が登場するが、109が登場しない、そしてまた駅前の光景がだいぶ違うというフィクションの世界を想定しよう。さて、それは渋谷に似ているが渋谷ではないと人々は考えるかもしれない。また、もしも渋谷という名称もハチ公もスクランブル交差点も見当たらなければ、それは渋谷をモチーフとした別の街である、と人々は考えるに違いない。

 

では、恐ろしく精確に現実世界を再現できるフィクション生成装置があったとしよう。それは未来のストリートビューのようなものかもしれないし、映画マトリックスのように、まったく現実と遜色のない精度で現実世界を再現できてしまう。これによって、ほぼ限りなく現実の渋谷に近い架空の渋谷を創造してみたとしよう。一見して、自分たちはそれを区別することはできないし、それが本物の渋谷と言われても何一つ疑いはしない。まさにそれは“本物の渋谷”も同然であるし、通行人や住民も完璧に再現されている。

 

さて、依然としてそれはトークンにすぎないものだが、もはやタイプとの違いは微々たる差でしかない。それは極限的に近い渋谷であり、限りなく誤差の少ないものである。ここで最初の話に戻ってみると、私たちがフィクションの渋谷を判別する方法は、それが実際の渋谷に限りなく近いから“ではない”だろう。つまり、いまのような言い方は正しくない。実際には、それが近いか遠いかということは問題ではない。これらが判別できるのは、自分たちが渋谷に抱いている信念にすぎない。本当のところ、自分たちは“渋谷そのもの”を知っているわけでもないし、そのような実在論的な対象を最初から手にしているわけではない。渋谷を渋谷と認識できるのは、手にしている信念と一致するかどうかにすぎない。したがって、現実の渋谷がどういうものかを知らないとしても、渋谷というトークンを持つことができるのだし、しかもそれだけで十分だと言える。

 

もちろん、これは存在論的な問いというよりかは認識論的な問い、言ってみれば、知識論としての問いであり、知っているとはどういうことかについての問いとなる。つまり、フィクション作品における実在的対象の扱いとは、単純な信念の集まり(=記号の集まり)を作品内の対象に一致させる作業にほかならない。それによって、自分たちは「受動的に作品の記号的な指示によって理解させられている」のではなく、自分たちは「能動的に作品に対して自身の持つ信念を当て嵌めている」とも考えられる*3。もし仮に、東京とニューヨークとを誤って認識している人がいたならば(そんな人はおそらくいないだろうが)、東京を舞台にしても、その人にとってはニューヨークでしかないだろうし、フィクション内においてどれだけ忠実に再現されていようとしても、それだけでは視聴者は作品の意図を読み取れないということになる。言い換えれば、視聴者はそれが渋谷であると知るのではなく、渋谷であるはずだと確信している、ということになる*4

 

このような認識を逆手に取ったフィクション作品も多く存在する。叙述トリックのようなミステリの十八番は、人間の認識を巧みに突いているとも思われる。というよりも、フィクションという営みこそが、このような人間の認識と共にあるのだと考えることもできるかもしれない。

 

やや雑多な内容になってしまったので、そのうち修正するか非公開にするかもしれない。南無三。

 

追記。。。フィクションの渋谷を、まさに「フィクションの渋谷」として理解している場合もあるかもしれない。この場合、自分たちはそもそも「本物の渋谷」として理解していない、という見方もできそうだ。しかし、フィクションではなく、マトリックスのような仮想現実のケースだと、このことは当てにならないかもしれないし、アニメや漫画であったとしても限りなく再現された渋谷であったなら、それを「フィクションの渋谷」と受け入れるのは難しいかもしれない。

*1:ここで必ずしも厳密にパース的なタイプ - トークンを述べているわけではないとご理解を頂きたい。

*2:砂山のパラドックスとかのあれ。

*3:いわんや、これは現象学的な発想でもあり、ニーチェの遠近法的パースペクティブにも通ずる。

*4:ということは、実際に自分たちが渋谷を渋谷だと信じていることもまたトークンにすぎないのかもしれない。しかし、自分たちは確かに実際に存在する実在的対象とも関わりを持っている。これに関してはジョン・R・サール『MiND 心の哲学』、ヒューバート・ドレイファス&チャールズ・テイラー『実在論を立て直す』において議論されている。