道端の小石のように

考える日々。

自己満足

定期的に体調が悪くなる。というか元気が出なくなる。こういうときは現実逃避するしかない。

 

ちょっと記事を書こうと思っていたけど、めんどくさい。人工知能は人間を超える知性を獲得するか?みたいな話はそこそこ面白いトピックだと思う。実際には、それが人工知能だろうが何だろうか、問題とならない。ようするに人間はどうやって、人間を超える知性というものを理解したり認識できたりするのだろう?まず、それが問題であるはず。

 

まあでも、コンピュータは数学者になれるか、みたいな本はけっこう多いし、そのうち読んでみたいなー。こういうのはわざわざ数学の分野からアプローチする必要もないのだ。そういえば数学の哲学の本で、数学者の言う「数の存在」の定義は、それが矛盾するかしないかの問題でしかない、なんて語られていた。もちろん、こういうのは数学者によってまちまちだろうし、哲学的な問題すら気にしない人も多そう。

 

現代の哲学やるんなら、まず最初にフッサールフレーゲの両名を片付けておいたほうがいい。ウィトゲンシュタインの言っていることなんて、カントの焼き直しにすぎないんじゃないか、理性の問題を言語の問題にすり替えただけなんじゃないか、とすら最近は思い始めている。言語ゲーム論だって、とどのつまりフッサールの生活世界概念に近いものだから。

 

現象学をやって理解できるものの一つは、ウィトゲンシュタイン的な他者の問題だ。そして現象学を勉強すれば、他者というものがますます無意味で不毛な問題であると感じられるようになってくる。現象学によって他者を拾い上げることができる、という発想はいささか先走りすぎている気がする。だが、それはウィトゲンシュタイン的なアプローチとはまったく異なる。フッサールウィトゲンシュタインのいいとこ取りなんて欲張りなことをする必要はもないわけで、他者論は二十世紀最大の擬似問題(あるいは失敗)の一つなのではないか、と思う。この問題を完全に一蹴するためにも、フッサールを批判的に理解してみる必要がある(そしてウィトゲンシュタインの馬鹿なところは、他者という問題を言語の問題として強引に解決しようとしたことではないかと思う)。

 

言語の問題であるとして勝手に勝利宣言している連中は、どうでもいい。他者はもうちょっと形而上学的な問題だ。もちろん、超越的な問題でもある。霊魂とは何かと語るようなものだろう。それならそれで、適切な問いを立てればいいだけのこと。両名とも失敗した。どうして失敗したか。それは自身の哲学のアイデアにこだわりすぎたから。だから失敗したというよりも、自己満足で終わった。哲学の世界におけるミニマリストたちは有益な議論をもたらしこそすれ、全面的な解決には絶対に届かない。やはり哲学史は重要なのか?という思いが脳裏をよぎった。