道端の小石のように

考える日々。

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その人がどんな理由でどのような行動原理に従っているとしても、それがわざわざ開示される必要はない。誰であれ、そもそも他人のことはたいてい気にしていないものだ。だから、自分が他人に意識されていると思いすぎるのは不遜でしかない。もしも誰かが誰かを気にするようなことがあったとしても、それは態度や行動が気に入らないから、という相手に対する無理解に由来しているだろう。最初から、他人のやっていることを気にする必要もなければ、理解する必要もない。よくわからない行動をしているとしても、それは本人からすればよく考えられた行動であることもある。だからといって、自分が他人によくわからないと思われているかもしれないと不安になるからといって、それを明け透けにする必要もない。そういった不安が常にあるとしても、それは相手の言いなりになることだ。お互いに負担できてこそ、友好な関係は芽生える。お互いにそのつもりであれば、もうその時点で関係は成立している。だから、自分のことを説明する必要は最初からない。

現象の謎って?

哲学において、存在の謎というものは重要な問題の一つに数えられる。近代以降であれば、ハイデガーの探求は存在の謎に関してもっとも顕著な例だと言える。つまり、存在論への志向となる。その一方で、フッサールの場合には、存在の謎というものは謎と言われるほど切羽詰った課題ではなかったと思う。おそらく、フッサールにとっては存在の謎よりも現象の謎になる。つまり、どのようにして現象的な世界が成り立っているのかの問いであって、これはデカルト、カント以来の哲学の典型的な態度だったように思われる。

 

ここで、二つの謎としての、存在の謎、現象の謎という区別をしてみると、自分は素直に、どちらも十分に価値のある対象であると感じる。そして、この二つの問いを見比べてみると、少なくとも存在の謎はたぶんにアプリオリな領域であり、現象の謎はどちらかというと経験科学と相容れないものというわけではない。むしろ、現象的な世界を捉えるためには経験科学の助けが必要になるに違いない。そうしてみると、現象の謎を考えるということは、科学から断絶するどころかおそらくは相互補完的に成り立つ関係なのであり、存在の謎よりもいっそう親しみやすいものになるだろう。例えば、自分たちは自らの主観的体験を報告したり、記述できたりして、そうやって(自己という表象を含む)現象的世界を観察したり理解したりすることを進化の結果であるとか、あるいは幻覚や夢体験といった生理的現象などを用いて理解しようとすることができるからだ。その意味では、現象の謎というものは哲学というよりも、実際には経験科学に近いところがあるのではないかと思う。

 

フッサールにおいては、生活世界概念というものがあり、これは存在論として十分に展開できるものだった。それによると、生活世界というものは、共同主観が成立する以前の普遍的(かつ不変的)な構造であり、そこからこの世界が形成されるということになる。これは端的に言って存在論ではあるが、存在の謎ということにはならないと自分は思う。同様に、カントの物自体も存在の謎ではない。なぜなら、どちらも自然な帰結にほかならないからだ。しかし、フッサールの生活世界とカントの物自体の両方は異なる問題提起によって得られる帰結であり、生活世界は自然的態度の形成や間主観性の問題から、物自体は一次性質・二次性質といった認識論の問題から成り立っている。カントのほうは完全に形而上学ではあるが、フッサールのほうはかなり自然な考え方であると言えるはずだ。

 

フッサールの自然科学や数学に対する態度は、確かに不当な評価であったかもしれない。ただし、フッサールは科学や数学そのものを無価値であると批判したり攻撃したわけではない、と言っておきたい。フッサールによると、ガリレオ以来の自然科学が、何らかの基準(それは数値的・計量的な基準のことで、現象が中立的に記述され、高い精度で的中されることで“正しさ”を保証するような基準のこと)を設けることで世界を正確に理解しようとし、それによって真理に到達できるという科学者の慢心的な態度を批判した(……いや、叱咤したと言えるかもしれない)。実際のところフッサールがどれほど従来の方法を批判しようとしたのかを自分はあまり知らないが、これが行き過ぎるとプラグマティズムの否定にも繋がってしまうかもしれない。しかし、ここには論点のズレがあるのではないかと思う。フッサールは生活世界概念を作ることで、それこそが真理と呼べるものへの確かな手段だと考えたのだ(と自分は思う)。言ってみればこれは、自分たちが確かに何らかの共有された空間に生きており、そこに存在し、そしてまたそこから人間の世界や自然科学の世界が成り立つのだという、穏当な存在論の提案だ。それは直観的に理解できるものである。ウィトゲンシュタイン言語ゲームに通ずるものでもあるだろう。よって、生活世界そのものは科学の対象になることはない。なぜなら、生活世界があってこそ自然科学の営みや人間の活動が成り立つのであり、現象的な世界を計量的に理解しようとする態度もまた、すでに“基準”を用いた相対的な方法でしかないことになる。だが、生活世界そのものというものは、確かに自分たちがそこから成り立っていながらも、客観的な(相互主観的な)方法によっては判明することのない対象となるはずだ。

 

同時代のエルンスト・マッハ(彼はフッサールと交流もあった)は明確に道具主義の立場をとっている。同時に、当時の生物学の知見も自身の思想に取り入れていたようだ。考えてみれば、当時の哲学においては生物学、つまりダーウィンの進化論に裏打ちされた考え方が浸透したようだし、フロイトの存在もあった。この両人に強い影響を受けていたのがニーチェであり、さらにフッサールの時代にはアインシュタインも生きていた。自分としては、フッサールは科学や数学を頭から否定したわけではないと思っている。しかし、フッサールは自身が数学に嗜んでいながらも、数学がかつてなく充実し、生き生きとしたものとなるのを予想しなかったのではないかと思う。もしもフッサールが現代の数学を知ったならば、自分の態度を反省したのではないか……たとえば、四半世紀前の哲学者が人工知能研究を甘く見ていたように。だが、フッサールの領分は超越論哲学であるのだし、自分が思うに、当時の唯物論的な科学者たちが安易に「真理」といった目標を掲げたことに我慢ならなかったのだと思う。結局は、アプリオリな領域をどう解決するかが哲学の課題の一つとなる。何を以て真理に到達すると証明できるのか、もしかするとこれは擬似問題でしかないのではないか、生真面目な哲学者ならきっとそう言うのだろう。

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哲学はけっこう好きだけど、最近は数学の良さもわかってきた。というか、良さについては前々からちゃんと理解している。面白みがわかってきたと言うべきか。哲学も数学もどっちも面白いと感じるので、どっちが劣っているかとか思わないし、どちらにしても本質的な知的領域と思うほかない。

 

よくありがちな、哲学の進歩と数学の進歩を比べるっていうのは何が言いたいのかわからないし、わかりたいとも思わない。哲学の方法論がおかしいと言いたいのかもしれないけど、たいていはカント辺りの表面的な話しか知られていないし、現在に至るまでに哲学の方法論は着実に進歩している。ようするに、哲学と数学という異なる分野の発展が、同じペースで同じように繰り広げられるという見方には価値がないと思う。

 

哲学は進歩云々言われる前に、(たぶんだけど)誤解されている。それに、哲学は哲学だけで完結するものではないし、生物学や認知科学の知見を得ることで幅広く展開されている。そのいずれの議論も無意味だというのは、もはや願望でしかない。

 

こうして見ると、現象学のほうがけっこうまともなのかもしれない(と思う)。現象(現前)から語れることは意外と多いし、感情、記憶、知覚といったものから議論できる。そして明らかに、それは哲学の問題であるはずだし、そこから健全な存在論すらも構築することができる。言語哲学では、どうしてもまともな存在論まで達することがないように感じられる。

 

そもそもこういうのって、なんで勉強するのか、なんで知識を身につけるのかって話なんだよな。そこんとこ、どうなんですか。わたしは自分のためにやっているだけ。それ以外の理由なんてないと思う。

自己満足

定期的に体調が悪くなる。というか元気が出なくなる。こういうときは現実逃避するしかない。

 

ちょっと記事を書こうと思っていたけど、めんどくさい。人工知能は人間を超える知性を獲得するか?みたいな話はそこそこ面白いトピックだと思う。実際には、それが人工知能だろうが何だろうか、問題とならない。ようするに人間はどうやって、人間を超える知性というものを理解したり認識できたりするのだろう?まず、それが問題であるはず。

 

まあでも、コンピュータは数学者になれるか、みたいな本はけっこう多いし、そのうち読んでみたいなー。こういうのはわざわざ数学の分野からアプローチする必要もないのだ。そういえば数学の哲学の本で、数学者の言う「数の存在」の定義は、それが矛盾するかしないかの問題でしかない、なんて語られていた。もちろん、こういうのは数学者によってまちまちだろうし、哲学的な問題すら気にしない人も多そう。

 

現代の哲学やるんなら、まず最初にフッサールフレーゲの両名を片付けておいたほうがいい。ウィトゲンシュタインの言っていることなんて、カントの焼き直しにすぎないんじゃないか、理性の問題を言語の問題にすり替えただけなんじゃないか、とすら最近は思い始めている。言語ゲーム論だって、とどのつまりフッサールの生活世界概念に近いものだから。

 

現象学をやって理解できるものの一つは、ウィトゲンシュタイン的な他者の問題だ。そして現象学を勉強すれば、他者というものがますます無意味で不毛な問題であると感じられるようになってくる。現象学によって他者を拾い上げることができる、という発想はいささか先走りすぎている気がする。だが、それはウィトゲンシュタイン的なアプローチとはまったく異なる。フッサールウィトゲンシュタインのいいとこ取りなんて欲張りなことをする必要はもないわけで、他者論は二十世紀最大の擬似問題(あるいは失敗)の一つなのではないか、と思う。この問題を完全に一蹴するためにも、フッサールを批判的に理解してみる必要がある(そしてウィトゲンシュタインの馬鹿なところは、他者という問題を言語の問題として強引に解決しようとしたことではないかと思う)。

 

言語の問題であるとして勝手に勝利宣言している連中は、どうでもいい。他者はもうちょっと形而上学的な問題だ。もちろん、超越的な問題でもある。霊魂とは何かと語るようなものだろう。それならそれで、適切な問いを立てればいいだけのこと。両名とも失敗した。どうして失敗したか。それは自身の哲学のアイデアにこだわりすぎたから。だから失敗したというよりも、自己満足で終わった。哲学の世界におけるミニマリストたちは有益な議論をもたらしこそすれ、全面的な解決には絶対に届かない。やはり哲学史は重要なのか?という思いが脳裏をよぎった。

予定は未定

ざっと勉強して位相空間論の入り口くらいまでこぎ着けたけども、今年中に不完全性定理なんかを理解するのは少し難しい気がした。できることならレーヴェンハイム - スコーレムの定理をきちんと理解できるようになりたいけど、来年になるかもしれない。実際に、よくわからない。順調に理解していると思いきや振り出しに戻る、ということもある。わかったつもりでいても意味ないし、ちゃんと理解するってなると、せめて他人に上手に(くどくどと理屈っぽく)説明できるくらいの知識は必要だと思う。まあ、このへんは理解できて当たり前のことだろうけど。

しかし本当にやりたいことは生物学であって、どちらかというと化学にも関連している。遺伝子が対象であったり、生命現象そのものが対象であったり、どのようにして生命体が知性や意識を得るのか、色々と。欲を言うと量子力学だって理解できるようになりたい。どのみち、そういうものは哲学の対象となる。逆に、そっちの方面に詳しい方々は哲学の理解が中途半端だから、エヴェレット解釈の議論なんかで対照的な意見を持ったりする。数学的プラトニズムとかもそうだし、実際のところ、超越論をちゃんと理解していない(さらにはストローソンの議論なども知らない)方々の哲学に対する批判というものは、どことなく藁人形論法な感じがする。とにかく、何を言っているのかわからない。自分はそういう人間を否定したりはしないが、カントを退けるのであれば、それ相応の理由や説明をしてもらわないと困る。彼らの言い分は、カントは権威的であるとか、理性は信頼できないとか、ようするに古代ギリシアみたいな素朴な存在論を支持するかのような態度が見られる*1。もしかすると、哲学に求めているものにこだわりがあるのかもしれないし、最初から、それ以外のことは求めていないのかもしれない(知りたいことだけを知る、というのは視野の狭さ以外のなにものでもないと思うが)。

どのみち、現象学の知識は必要となる。どのみち、というのは自分の基本的な姿勢となる。どのみち必要になるから、遠回りになったとしても知っておくべきだろう。大器晩成という言い方は大袈裟だけども、どのみち超越論や現象学の理解が必要になるならば、それもやっておくに越したことはない。それがわからずに、延々と哲学の無理解をさらしているのは不愉快とすら感じる。でも、自分もなるべくは特化型でありたいし、現象学(と超越論哲学)、数学、生物学で何ができるのか、ちょっと思案中。まあ、なんか面白いアイデアが浮かべばそれでいい。一生を棒に振る覚悟でやらなきゃ何もできない。

今月はもうちょっと集合論やって、来月から群論。解析と分析(哲学)もちまちまやっていかないと。今年は飛躍するのねー。

*1:アリストテレスはわりと現代の自然科学に通ずる態度を持っている。そういうのは一般に素朴実在論と呼ばれるものだけど、アリストテレスの場合はもうちょっと特別だ。「魂のうちの考える部分は、無感覚であるにせよ、対象の形相を受けとることができなくてはならない。つまりそうした部分は、対象であることなしに、その対象と潜在的に同じものでなくてはならない。」(霊魂論)わかりやすく言い換えると、私たちは外部にある客観的な対象の“熱さ”や“丸さ”をそのものとして心に受けとる、つまり素朴実在論というよりも直接実在論である(これに関してはパトナムの『心・身体・世界』を参照)。哲学の用語で言うと、第一性質、第二性質がそれに近いと思う。だが第一性質を直接に認識・理解できるという考えは、科学における仮説的な態度にすぎないものではないだろうか。無論、これに相対する考え方というとセンスデータ論になると思われる。

無題

ワードマップ心の哲学を読んでいるけど、ほとんど見てきたような話題ばかりで面白みに欠ける。でも、さすがは網羅的に取り扱っているだけあって、ちょこちょこ気になる話題は載っているし、自閉症精神疾患なんかも取り上げられている(正直言って蛇足程度のレベルだけども…)

ところで拡張認知仮説(p.242)って、アルヴァ・ノエのエナクティブ・アプローチみたいな話なんだなって。しかしこれだけ読んでみても意味がつかめないと思うので、ノエの『知覚のなかの行為』なんかが参考になります。あとネット上で文献を探してみるとか、哲学系のサイトを当たってみるとか*1。こういう発想はヴァレラであったりギブソンアフォーダンス理論が発想の源泉なのかもしれないけど、それ以前に哲学としてはけっこう伝統的な議論かもしれない。なんでも、この手の話題は人工知能の分野で盛り上がっていたりしているらしいけど、どういう感じなんですかね*2

 

自分が調べたいと思っていたのはトロープだけど、トロープは心の哲学じゃなくて現代形而上学のほうで説明されているっぽい。トロープというと、Very Short Introductionsの形而上学でも書かれていた。トロープ、わりと面白い考え方だと思うけど、いかんせん頭に内容が入ってこない。アームストロングとか読んだほうがいいのかもしれない(以前読んだけど、途中で投げ出した)

トロープというと、じつはフッサールの考え方にも表れている。彼の場合、スペチエスという理論が出てくるけど、これもけっこうわかりにくい。概して、普遍とか性質っていうのはとっつきにくい領域だと思う(フッサールも哲学者なんだなぁ、しみじみ)

 

近々の目標として、「現象学ってなに」ということを上手に説明できるようになりたい。自分は現象学を専門としているわけじゃないけど、現象学ってなにかとツッコミの入れられやすい分野だし、そうした批判や指摘の意図を正確に汲み取れるようになりたい。とりわけ数学や分析哲学の方々からのクレームが多いように見受けられる。彼らが何が知りたくて、何がわからないのか、それがわからないけど、ちょっと偏った見方をしすぎているのはないかと思う。

これについては、カントがわからないと数年間言い続けていた人が居て、石川文康のカント入門を読んでみたら疑問がたちまち解決したらしいので、けっこう困惑した記憶がある。いったいなにがわからなかったんだ…? よくわからないけど、異なる分野の人が求めるものっていうのは見ていて興味深い。“わからないこと”を知る、けっこう大切?

*1:https://deepbluedragon.hatenadiary.com/entry/20180909/p1

私がよく参考にさせてもらっているサイト。

*2:たとえば『人工知能のための哲学塾』という本があります。

哲学の難しさ?

今年はカントについて真面目に理解してみたいので色々と勉強している。現代のカント解釈といったら、ジョン・マクダウェルは外せない。なのでマクダウェルの『心と世界』を読んだりしているけど、哲学における難しさとは何かという疑問が思い浮かんだりする。

 

自分はかなり以前から、自我論を中心にやっている。なので現象学や超越論哲学のことを難しいと感じることは少ないし、そこからふんだんにアイデアを得ることもできる。たとえば主観体験、人格の同一性、記憶、あるいは時間論、存在論などといった、それなりに古典的なテーマにかじりついているし、これらの議論から得られる洞察は非常に多い。

 

一方で、このような議論を難しいだとか無意味だと思う人間も少なくはないようだ。無意味というのは、まだ理解できるかもしれない(まあ、これは哲学に限らない話だし)。でも難しいというのはどういうことだろう? 難しいというのは、うまく入り込めないとか、好きになれないとか、目的意識がわからないということだろうか。何を言っているのかわからないとか、退屈だとか、そういうことなんだろうか。そういったことは一考に値するかもしれないが、哲学が特別に難しいというわけではない。あえて言うなら、哲学は日常的な経験から離れているためにイメージしにくいものがあったり、哲学の内部でも言われたりするように擬似問題のようなものが潜んでいたりする。しかしそういったことも順を追って理解していけば問題なく理解できるだろうし、その問題意識も汲み取れるようになるはずだ。

 

自我論は生物学とも相性が良かったりする。生物学というよりかは生物学の哲学かもしれないし、あるいは進化論かもしれない。このような自我や心の生理的な根拠付け(またはそれに類似した発想)は、現代であればダニエル・デネット、ルース・ミリカン、ポール・チャーチランド、古くはエルンスト・マッハ、ユクスキュル、メルロ=ポンティなどがいる。もっと遡れば、じつはオッカムやヒュームにもこのような発想が認められる。つまり進化論は心理主義(≠心理学)や経験論として解釈できるかもしれないが、いま挙げた面々については自我論というよりかは遥かに心の哲学philosophy of mind〉である*1デネット現象学的な議論も展開するが、やはりそれはフッサールハイデガーとは一線を画したものであると見るのが正しい。そもそも彼の場合は真正の現象学ではないという意見もある。

 

自我論(と自分が度々呼んでいるもの)とは、スピノザ、ヒューム、カントらの業績からなる哲学の一分野であると思っている。さらに、ここから枝分かれした分野として現象学心の哲学があるのだと自分は解釈しているが、自我論というのはカテゴリー論とも密接に関係しているので、ほぼ超越論的哲学である。またハイデガー曰く、存在論現象学なくして成立しなかったとまで言い切る。それはまあ置いておく。ところで、自我論というと、これはもう明快にカントになってしまうと思われるのだが、一方でカントの現代的な解釈というのは迷走していると思われる。というよりも、カントの提起した問題をあえて無視している、とまで感じられる。

 カントは結局は何をしたんだ? と聞かれれば、自分ならば「世界の成立条件の探求」と答えるだろう。ようするに、それは現象学のことか? と思われた方は鋭い。でも、たぶんだけど現象学ってカントやそれ以前の哲学者がやったような深いところまでは意図的に探求を控えている*2。だってそんなのわかるわけないじゃん、ってなるから。自分もそう思う。後期フッサールは確かに発生的な現象学を標榜したけれども、それが上手く行ったかどうか(というか、フッサール自身にとって満足のいくものであったか)は定かではない。それでもカントやフッサールを勉強する理由は、自我や自意識とは何か、というテーマを幅広く扱うことができるため。自我って進化の産物だよね、とか、論理や因果性ってアプリオリな条件だよね、とか、そうすることで「他我」や「意識の有無」を議論する際に有効になる。事実、カントも他我=間主観性というものを一部で取り扱っている。カントにとって、それは倫理的な目論見を達成するためにも必要とされたようだ*3

 

ここまで書いてみて思ったが、哲学が難しい、わかりにくいというのは、その全体図がはっきりしないからかもしれない。どのような歴史があり、どのような派閥があり、どいつらが対立しているのか、それがいまいち謎めいている。全体図がわかってしまえば、ああこういうことかと納得できるし、ある特定の話題に関して集中すれば論理の運びもわかりやすと思う。もちろん、哲学史を中途半端に理解しても、それによって何もかもカバーできるわけではない。哲学者はそれぞれ独自のアイデアを持っているものだし、あまりにも独特すぎるから、哲学史として一挙に紹介するのは困難だったりする。ただ、明らかなことは、もちろん彼らは適当なことを言っているわけではないということだ。お粗末な議論もあるし、空想の域を出ないものも多いが、ただ、それは哲学に限らないことなので、これもまた哲学のわかりにくさを説明するものではない。

 

というわけで、哲学が難しいというのは自分たちが単純に哲学に馴染みがないからだと思う。なんとなく近寄りがたい、なにをやっているのかわからない、変な噂が多い、こういう理由で先入観を持っている可能性もある。比較的新しめの哲学の本を読んでみればイメージが変わるかもしれない。

 

なるべく現代の哲学を学んでみたほうがいい。いきなりカントやハイデガーを読んでみる必要はない。哲学っていうのはかなり広い。それでいて、誰もが面白い議論を展開している。どうしてもカントやハイデガーを読みたいのであれば、そこに何を期待しているのかを自覚しておくべき。数学の勉強をするときに、いきなりガウスオイラーの著書に当たる人は少ないだろうし(ユークリッド原論ならまだありそう)、そういう方は最初から目的意識を持っている。つまり、だいたいそこに何が書かれているかも事前に承知している。自分が現代の哲学者を先に読んだほうがいいと思うのは、大抵の場合、それらが洗練されていて馴染みやすいため。形而上学はほぼ駆逐されているが、それが良いか悪いかは置いておいて、とにかくわかりやすいというのがある。それでいて簡潔かつ強力な議論も展開されている(もちろん、非常にテクニカルな議論も存在する)。これについては体感でしかないので何とも言えないけども、昔の哲学者が難しいとされるのは文章の晦渋さにもあると思う。まずは現代的な見方を深めて、入門書などで予備知識を得てから、過去の哲学者を批判的に理解していくのがベターだと思います。

 

哲学を理解してどうしたいのかっていうのは自分もよくわかりません。そんなのは人それぞれであって、その目的の大きさも大小さまざまなので。ひとまず哲学は難しいものではないし、わかりにくいものではない、と言っておきましょう。いったい誰に向けて書いているのかわからなくなってきたので、このへんにしておきます。

*1:分析哲学の入門書では、あたかもデカルト以来の哲学が例外なく分析系であると紹介されることがある。これが行き過ぎた見解であるかは自分には判断がつかないが。

*2:一般には、フッサール現象学の企てというものは現象的世界の構造の探求であり、エポケーから発して自然的態度や確信の条件を理解するものだと紹介される。その一方、世界そのものが何であるか、という存在論的な探求にはあまり熱心ではない。フッサールがそれを何も考えなかったわけではない、これについてはいずれ。

*3:「カントが人間を「理性的存在者」と規定しているのは、カント倫理学の基軸を成すのが「超越論的方法」であることによる〔…〕カントは、ニュートン物理学における自然的世界の存在機制を念頭に置いて、複数の人格が存在していれば、それらの人格は道徳法則によって倫理的共同態に在らしめられるべきであることを、自明の事柄であると考えた。」鈴木文孝『カントとともに』p.67